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 医師に任せる治療から、患者の自己決定を重視する治療へ──。治療方針について患者への説明が求められ、インフォームドコンセントが重視されるようになるなど、医師と患者の関係性はこの30年で大きく変化してきた。変化が端的に表れているのはがんの告知ではないだろうか。「非告知」から「告知」の時代となった転換点は1990~2000年ごろにある。世論からどのような要請があり、また、医師はどのように告知を受け入れたのか。がん告知の歴史を振り返るとともに、がん治療の変化やインフォームドコンセントの現状に関して研究した岡山大学大学院医歯薬学総合研究科消化器外科学教授の藤原俊義氏へのインタビューを掲載する(全3回の連載)。

告知率30年で80%増

 昭和が終わり平成の始まる1990年前後、厚生労働省の全国遺族調査などを見ると、日本のがん告知率は15%ほどだった。しかし、厚生労働省が2007年(平成19年)から策定した「がん対策推進基本計画」では、「がん患者の就労支援」「がん患者の相談支援」などが重点項目に挙げられるなど、今では「告知」は政策の前提となっている。

 がんの告知率に関する統計は見つからないが、厚労省などのデータを総合すると、平成に入り告知率が徐々に上昇していることが見て取れる。2016年には、国立がんセンターが全国778施設を対象に「院内がん登録全国集計」を実施し、初めてがんの告知率が全国的に集計された。結果、告知率は94%に達していることが明らかになった。

(2014年2月14日「第42回がん対策推進協議会」資料)

 厚労省は1989年(平成元年)6月、「末期医療に関するケアの在り方検討会」の報告書で、告知に関して「すべての患者に一律に告知するのは早計」と断りながらも、「一層積極的に進めなければいけない」と明記し、告知への姿勢の転換を示している。とはいえ、告知に関して省庁から何か特別な通達や指導があった訳ではない。

 告知率の上昇は、直接的な政策や提言の結果というよりは、告知に対する世論の要請が高まったことや、治療技術の進歩により医師側の告知への心理的抵抗が弱まったことなどの要因が複合的に絡まった結果と考えられる。では平成初期、どのような「世論の要請」と「がん治療の進歩」があったのだろうか。

人気司会者の「がん」告白、世論の転換点

 「今年の1月から2月にかけて私が入院いたしまして、手術して退院した時にはやはり集まっていただきました。その時に私が発表した病名は大変申し訳なかったのですが、嘘の病名を発表致しました。(中略)今回は嘘をつくことによって迷惑をかける方々が非常に多いということで、本当のことを申し上げます。私が今、侵されている病気の名前、病名はがんです」

 1993年(平成5年)9月6日、当時週5本のレギュラー番組を抱えていた人気司会者の逸見政孝氏は、緊急記者会見を開きそう告白した。午後のワイドショーでも中継された「戦闘宣言」だった。

 当時、芸能人ががんを表明することは非常に珍しく、逸見氏の告白は社会に大きな衝撃を与えた。『がん告知の扉』(毎日新聞社)では、「連日がんと闘う逸見さんの報道がつづき」、「逸見効果でがん検診の受診者が増加」、「テレビや雑誌で『がんから生還した有名人』の特集があふれた」と状況を説明している。

 逸見氏ががんを公表した1980年代後半から1990年代前半は、テレビや新聞、書籍などでがん告知が注目され、告知をめぐる議論は転換期にあった。医師の大鐘稔彦氏は1986年、自身の症例をまとめた『癌の告知』(メヂカルフレンド社)を上梓しているが、日野原重明氏は本書の推薦文に、「日本人の死因の第1位である癌に対して、日本人はもう少し賢く、またこれを冷静にうけとめ、癌と対決する際の自分の人生観をもっとしっかりもたなければならないと思う」と寄せている。

最高裁、告知は「裁量の範囲」から「義務」へ

 裁判でも大きな変化があった。がんの告知に関する初の最高裁判決は1995年(平成7年)。この時、告知は「医師の裁量の範囲内」とされたが、2002年(平成14年)に最高裁は別の訴訟で、「医師は患者家族への告知を検討する義務がある」とする判断を下す。実質的な判例変更だった。

 1995年の裁判は、がん告知に関する訴訟が珍しかった当時、「名古屋がん告知訴訟」として注目を集めた。原告の男性の妻は看護師で、腹部に痛みを感じて訪れた病院で1983年、「重症の胆石症」と診断された。医師に手術を強く勧められるも、看護師の経験から「胆石なら手術は必要ない」と判断。通院を止めたが、激痛が起きた時には既にがんは肝臓に転移していた。妻は約半年後に死亡。男性は「医師が病名を隠したために治療が遅れて死亡した」として病院を提訴した。

 1989年(平成元年)、名古屋地裁は「告知は医師の裁量の範囲内」として提訴を棄却。1990年(平成2年)には名古屋高裁で控訴が棄却され、1995年に最高裁判決が確定した。最高裁判決では、本人への告知義務のほか、「患者が自ら来院を途絶した以上、医師は説明の機会を失っている」とし、家族への説明についても医師の過失を否定した。

 しかし、最高裁は2002年、「告知を検討することは医師の義務」と判断を変える。1990年に末期がんで余命1年と診断された男性に対し、本人とその家族に告知をしなかった医師を、妻と子供が「告知をされていればより多くの時間を男性と過ごせた」と訴えた裁判だった。秋田地裁は請求を棄却したが、仙台高裁は医師らに計120万円の慰謝料の支払いを命じた。

 上告した医師らに対し、最高裁は「患者の家族などのうち、連絡が容易なものに対しては接触し、告知の適否を検討、適当であると判断できた場合、説明する義務を負う」として上告を棄却。「治療が遅れた」という側面からではなく、純粋に「患者の知る権利」そのものを認めた重要な判決だった。

新薬の承認と5年生存率の大幅な改善

 告知に対する世論の動き以前に、昭和中期に比べ平成初期はがん患者の5年生存率が大きく改善していた。国立がんセンターの統計によると、1966年から1999年にかけて、男性の5年生存率は29.3%上昇し58.8%、女性も15.5%上昇し66.0%となっている。治癒率の高い手術手技の確立や、効果の高い抗がん剤の承認が相次いだためだ。

 例えば、日本で初めて肺がんの胸腔鏡下手術が成功したのは1992年(平成4年)、大腸がんでCPT-11が承認されたのは1995年(平成7年)、乳がんではDocetaxelの承認が1997年(平成9年)、胃がんのTS1の承認は1999年(平成11年)だ。2000年に入ると、Trastuzumabが乳がんで承認(2001年)されたのを皮切りに、分子標的薬の承認が相次ぐ。


(2014年2月14日「第42回がん対策推進協議会」資料)

 国立がん研究センターのがん統計によると、がんの罹患数、死亡数は男女ともに1985年以降増加を続けているが、がんの死亡率の増減を確認するために使用される年齢調整死亡率は、1990年後半から減少に転じている。

(国立がん研究センターのがん統計・年次推移より)

行政「すでに告知は施策の前提」

 2006年(平成18年)に成立した「がん対策基本法」では、基本理念に「本人の意向を十分尊重してがんの治療方法等が選択されるように、がん医療を提供する体制の整備がなされること」を掲げている。同法では、がん予防の推進やがん検診の質向上、研究推進やがん医療の均てん化の他、「緩和ケアを診断時から適切に提供するなど療養生活の質向上」、「がん患者とその家族に対する相談支援等の推進」、「がん患者の就労支援」、「がん教育の推進」──など、告知が前提となる施策が挙げられている。

 同法に基づく「がん対策推進協議会」を通じて、翌2007年(平成19年)にがん対策推進基本計画(第1期)が策定。がん対策予算は1990年度の19.8億円から2007年度には212億円と約10倍、2018年度は358億円にまで増加した。

 がん対策推進基本計画(第1期)では、治療の初期段階からの緩和ケアの実施に向けて、「すべてのがん診療に携わる医師に緩和ケアの基本的な研修」を求めており、拠点病院におけるがん患者の主治医や担当者となる医師の受講率は2018年6月末時点で85.2%に上る。緩和ケア病棟の施設自体、1990年にはわずか5施設だったが、2018年には415施設に増加するなど、告知後のケアに関する環境が充実している。

日本ホスピス緩和ケア協会ホームページよりより)

 2018年(平成30年)、全体目標を「がん患者を含めた国民が、がんを知り、がんの克服を目指す」と定めたがん対策推進基本計画(第3期)が閣議決定された。厚労省の担当者によると、第3期計画は「これまでの取り組みに加え、がんゲノム医療や免疫療法、チーム医療の推進など科学的技術の進歩に特に重きを置いている」。がん患者の病気発覚後の就労率はここ10年改善しておらず、「がんになっても尊厳を持って生きられる就労支援も課題」と言うが、「告知に関しては既に一般的であり、『がんを知っている』という前提で政策を進めている」と強調した。



【参考文献】

『癌の告知 ある臨床医の報告』(大鐘稔彦、メヂカルフレンド社)、『がん告知の扉』(毎日新聞社)、『がん告知最前線』(小笠原信之、三一書房)、『告知 外科医自ら実践した妻へのガン告知と末期医療』(熊沢健一、PHP文庫)

【平成の医療史30年◆がん告知編】

平成の医療史30年

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