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 ラテン語の有名な警句に”spero dum spiro”というのがあります。「息をしている間(つまり、生きている間)、私は希望を持つ」という意味だそうです。ドストエフスキーもまた、「希望なしに生きるとは、生きることが終わったことだ」と言っています。人間は「希望」なしには生きていけないもののようです。

 ただし、「希望はうまい朝食だが、まずい夕食である」(フランシス・ベーコン)とも言います。我々は希望を抱き、それを打ち砕かれて辛い思いをし、それでもなお懲りもせずに次の希望を持ち続けるのです。「希望というやつは随分と嘘つきだが、それでも我々を、楽しい道を通って人生の終着点まで行き着かせてくれる」、つまりは幻影にすぎないのだ、とは皮肉屋のラ・ロシュフーコーの箴言です。

 その幻影のような「希望」とはいつ生まれたのでしょうか。ギリシャ神話で有名なパンドラの箱には、ありとあらゆる災厄が詰まっていて、箱を開けてしまった途端にそれがこの世にばら撒かれたとされています。しかし、その底には「希望」が残っていました。しかしながら、これには逆に、希望があるからこそ人間は諦められずに苦悩し続けるのだ、だから希望もまた最後の(そして最大の?)災厄なのだ、という説もあるそうです。こうなると「希望」とは、仏教でいう「煩悩」と同じようなもので、捨てることができるのならよほどそっちの方がサバサバする、という話になります。

「ケアを改善しコストを削減する」トップ・ファイブ第1位は?

 こういう話は拙著『希望という名の絶望』(2011年、新潮社)に書いたので、ご興味がある方はご参照ください。そういう哲学的な考察はともかく、人間の性(さが)や業(ごう)として「希望を捨てられない」もしくは「諦められない」というのがある以上は、絶望的な現実が「諦める」ことを強いる末期医療の状況で、それは大きな問題となってのしかかってきます。緩和ケアの専門家は「症状緩和も希望の一つだ」なんておっしゃいますが、相当数の患者が、「苦しんでもいいから命を延ばしたい、死にたくない」と無理な治療(”desperation oncology”)に走ろうとするのもまた事実です。こういう絶望的になった患者がよく口にする言葉が「私には失うものは何もない」というものです。そしてそんな患者に対して、ニューヨークのストーニー・ブルック大学のAaron Sasson先生のように、「希望を処方する(prescribing hope)」ために治療を勧める方もおられます。

 2011年にASCO(American Society of Clinical Oncology)は、癌領域での「ケアを改善しコストを削減する」トップ・ファイブのリストを発表しましたが、その堂々第1位は、「無理な抗癌治療をするな」です。対象は、「PS不良、直近の治療が無効、臨床研究不適格、さらなる抗癌治療の価値があるというエビデンスがない」患者で、つまりは「もうやることがない(やれば苦しめるだけの)ような患者は、症状緩和一本に絞れ」ということなのですが、この極めて当たり前のことがわざわざ真っ先に出てくるということは、つまり、「みんなそういうのをやっている」事実の裏返しでもありましょう。

「ドタバタして穏やかに死ねない」事態のおそれ

 そうした「治療」はどのくらいの患者に行われているのか。シアトルのフレッド・ハッチンソン癌センターの2007~2015年の患者集計では、「最期の1カ月」に入院した患者が56.3%、CTなどの画像診断を1回以上受けたのは48.6%(だからやはり「入院したからには調べなければならない」と考えるらしい)、化学療法を受けた患者は18.5%、放射線治療を受けたのは9.8%でした。亡くなる2週間以内に化学療法を受けた患者も7.8%いました。まあ、治療関連死亡ということもありましょうから、これらが全部、最初から「無駄な診療」だったのかどうかは分かりませんが、65歳未満でホスピスに登録されていなかった患者ではオピオイドの処方率は40.5%にすぎず、しかもこの割合は年を逐うごとに低下しているということですから、特に若い患者では「諦めきれない」傾向が読み取れます。

 この”desperation oncology”の結果がどうなるかというと、緩和ケア(ホスピス登録を含む)が遅れる、救急受診が多くなる、集中治療室(ICU)への入院が多くなる、蘇生術を受けてしまいがちになる、というわけで、つまりは「ドタバタして穏やかに死ねない」という結果になります。「穏やかに死ぬよりも生きる可能性を追求したい」というのは患者の選択だとしても、「症状コントロールがされずに苦しんで死ぬ」のはさすがに避けるべきでしょう。実際、そうした「末期化学療法」のような治療により、比較的PSが保たれていた患者ではQOLはむしろ悪化し、「もう失うものがない」というPSの悪い患者でも改善することはないと報告されています。

 加えて、コストの問題があります。高齢者の大腸癌治療に関する比較調査では、「やってしまいがちな」アメリカと「控える」カナダ(オンタリオ州)では、死亡30日以内の化学療法と画像診断の実施率はそれぞれアメリカで15.7%と39.4%だったのに対して、カナダでは8.0%と31.1%でした。その結果、ICU入室はアメリカで43.2%に対しカナダで17.9%、また1日当たりの医療費はアメリカ2004ドルに対してカナダ1067ドルと倍の開きがありました。

 そして、実際にかかったコストだけではなく、それ以外の”human cost”も考慮する必要があります。ネブラスカ大学のChandrakanth Are先生は、「諦めきれない」重症患者と家族を大病院に搬送したのだけれど24時間以内に亡くなり、(遺体を)搬送して戻った経験から、患者や家族の精神的・心理的負担、そして何人もの人間が関わった搬送の社会的コストなどについても考察しています。客観的に見れば「よせばよかった」のは明らかで、患者や家族が「失うもの」は、実は自身が思っていた以上に「あった」(失ってから気がつく)のですが、なかなかその場での「希望」を無視することができず、「無理」につながるのです。

”Lazarus response”もありうるようになって

 しかしながら、従来の殺細胞性抗癌剤治療ではそういう患者を「苦しめるだけ」だったのかもしれませんが、最近の癌治療は、分子標的薬や免疫療法剤により、「奇跡的」な治療効果を生み出すことがあるのも事実です。その嚆矢となったのは、例えば、EGFR(Epidermal Growth Factor Receptor)の阻害剤(tyrosine kinase inhibitor, TKI)gefitinibによるEGFR変異陽性肺癌の分子標的治療でしょう。2009年に東北大学の井上らが、化学療法の対象にならないようなPS不良患者に対するgefitinibの治療効果を発表し、editorialで”Lazarus response”と評されました。

 この”Lazarus”というのは聖書に出てくる「ラザロの復活」の登場人物で、イエス・キリストの友人でした。イエスはラザロが病気だと聞いて見舞いに来たのですが、その時は既に彼が病死して4日後でした。しかし、イエスが彼の墓の前に立ち「ラザロ、出てきなさい」と言うと、死んだはずのラザロが布に巻かれて出てきたということになっています。今だったら、「うゎ、ゾンビかよ」みたいな話ですが、それはともかく、欧米では「蘇生・復活」に関連する学術用語にこの「ラザロ」が使われるのだそうです。それほど劇的な効果であり、肺臓炎などの副作用が出てこなければ、忍容性は極めて良好です。

 免疫療法剤によっても同様に、「奇跡的」な効果が得られることがあります。そうなるとやはり「諦められない」、そして治療によって「失うものは何もない」と考えてしまうのは人情であり、やってみれば「苦しめるだけ」に終わる場合が圧倒的に多い”desperation oncology”が、治療の進歩によって再燃してきます。結果、誰も「諦めない」ために緩和医療は崩壊するのではないかという懸念さえ出されています。ボストンの有名な外科医であるアトゥール・ガワンデ先生はこれを「宝くじ配布組織」と評し、またアメリカ緩和医療の第一人者であるジェニファー・テメル先生はこの「予後の不確実化」を、良いことではあるのだがまた医療者が立ち向かわなければならない難題でもある、と指摘しています。

“desperation oncology 2.0”はどのくらい実施?

 さてそれでは、こういう”desperation oncology 2.0”は、どのくらいなされているのでしょうか。カナダケベック州からの報告では、前立腺癌患者に対して「最期の1カ月」に癌治療薬が投与されたのは27.5%で、2005~2012年よりも2012~2013年の方で、1.60倍使用が増えていたということです。化学療法を行った患者で「最期の1カ月」に投与を受けたのは10.2%でしたが、abiraterone(この連載第56回で取り上げた内分泌治療薬)ではその割合が27.8%、またdenosumabやzoledronic acidなどの骨標的薬では31.8%と高い傾向にありました。よってやはり化学療法に比べ「使いやすい薬」は、「最期まで使う」ことになりがちのようです。

 免疫チェックポイント阻害剤の「末期使用」に関してもいくつかデータがありますが、スタンフォード大学などのグループは、2014年の免疫チェックポイント阻害剤承認の前後で末期治療がどう変わったかを検討しています。それによると、「最期の30日」の癌治療は、全体としては14.4%から12.4%へと減ったものの、その内容ではやはり免疫チェックポイント阻害剤使用が増加し、かつ、これを末期に使用した患者は、通常の化学療法を末期(死亡30日以内)に使った患者に比べても、救急外来の受診や入院が増え(つまり症状緩和がうまくいっていなかった)、かつコストも高くついた、と報告されています。

 同じく免疫チェックポイント阻害剤の承認前後を比較したアメリカの全国調査では、上記と違って、「最期の30日」の癌治療そのものが、悪性黒色腫で33.9%から43.2%に、非小細胞肺癌で37.4%から40.3%にそれぞれ有意に増加したということです。またその内容も、化学療法が減ってその分免疫チェックポイント阻害剤の使用が伸びてきたと報告されています。

 もう一つ、フロリダ大学などからの報告では、「最期の30日」免疫チェックポイント阻害剤を投与された患者のうち40%はその期間のみの投与だった(つまり、初回投与を開始されてから30日以内に亡くなってしまった)ということなので、これぞ本当に”desperation oncology”と言えるでしょう。実際、投与時点の患者では50%以上がPS2以上で17%がPS3だったそうです。また、その30日の間に60%が入院、65%が救急外来受診、20%が集中治療室入室、など、やはり症状緩和の面では不良であったことが示唆されています。

未承認の治療を求めて患者が提訴する例も

 よって、やはり治療薬の進歩とともに”desperation oncology 2.0”とも呼ぶべき事態が起こり、少なくとも一部では(コスト以外にも)末期患者の不利益も招いているようです。さらにこれに加えて、既存の(承認されている)薬剤でも効果が出なかった場合、実験的な医療を求める場合も多くなっています。無論、そういう際にはきちんとした臨床試験に登録されそこで「治療」を受けるのが本筋ではありますが、適当な試験がなかったり、もしくはあっても厳しいeligibility criteriaではねられたりすることが多いのも現実です。

 そうした場合、ある程度有効性が期待できるのは、医学的な根拠がある場合(例:腫瘍の標的が同定されてその阻害作用を持つ化合物がある時)、他の疾患で承認されているものを「適応外」で使用するoff-label useなどであり、その実態報告も出ています。そのほか承認前の薬剤についての使用を許可するcompassionate useもしくはexpanded accessという枠組みもありますが、アメリカではそれを飛び越して、全くの試験的薬剤でも最低限の安全性データがあれば使用を許可するというright-to-try lawが多くの州に採用されています。

 この”right-to-try”にはかなりの問題が指摘され、ASCOその他の学会からも反対されていますが、仕組みが「できちゃった」以上は患者の求めにどう対応するか、みたいな論文も出されています。アメリカではさらに、未承認の治療を求めて患者が裁判所に訴えを起こすなんてことも頻発して問題化しています。日本では逆に、(医師がやる限り)いかがわしい民間療法を取り締る法律もないのが問題になっていますが、これについては「自費診療」ですから、医療コストを議論する本稿ではそこまで立ち入りません。

 いずれにしても、冒頭に記したように、人間は「希望がなければ生きていけない」のだとすれば、客観的には壮大な「無駄遣い」の源泉である”desperation oncology”も、ただ無視するもしくは無下に却下することはできません。いかにしてこれに対処していくか、は次回から考えたいと思います。

【参考文献】

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末期治療(主に化学療法)の実態と意義およびコスト

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「諦められない治療」の問題点

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未承認薬を求める動き

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國頭 英夫(くにとう ひでお)

日本赤十字社医療センター化学療法科部長。1961年鳥取県生まれ。1986年東京大学医学部卒。国立がんセンター中央病院内科などを経て現職。日本臨床腫瘍学会協議員・日本肺癌学会評議員。これまでの著作に里見清一名義で『偽善の医療』(2009年)、『医学の勝利が国家を滅ぼす』(2016年)、『「人生百年」という不幸』(2020年、すべて新潮新書)、『死にゆく患者と、どう話すか』(2016年、医学書院)など多数。

日本で”value trial”(コストとバリューを重視した臨床研究)を推進するためのプロジェクトを設立。

そのウェブサイト⇒SATOMI臨床研究プロジェクト

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