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5歳のラブラドール・レトリバーの雑種、ジェリービーンは、限界を何度も超えてきた。ソファのお気に入りの場所で飛び跳ねたり、リビングを悠々と歩き回ったりしているのだ。がんがあちこちに転移しているようにはまったく見えない。飼い主のパトリシア・メンドンサとザック・メンドンサは、いまだにこの奇跡を信じられないという。「足取りが少ししっかりしてきました」とパトリシアは言う。
3年ほど前、ジェリービーンは後ろ脚の骨にがんがあると診断された。脚を切断し、化学療法を行なったにもかかわらず、がん細胞はすぐに血液を介して肺に拡がった。イヌの症例の90%はこうした経過をたどることが多い。この段階になると、余命は平均2カ月だ。「治癒の見込みはありませんでした」とパトリシアは語る。「あまりにショックで……何も考えられませんでした」
そこで2020年11月、メンドンサ夫妻はタフツ大学の臨床試験にジェリービーンを参加させた。タフツ大学は、米国ロード・アイランド州にある夫妻の自宅からクルマで約1時間の場所にある。無料で3種類の錠剤が出され、夫婦は毎日、愛犬の大好きなチキン風味のおやつにそれらを埋め込んで投与した。クリスマスを迎える頃、ジェリービーンの腫瘍は小さくなり始め、その後、現在に至るまで大きくなっていない。この結果には、ジェリービーンの治療にあたった獣医も大いに驚き、この薬はほかのイヌだけでなくヒトにも効くかもしれないという期待が高まった。
イヌのがんは人のものとよく似ている
ジェリービーンが患う骨のがん(骨肉腫)は、人間にも症例のある病気だ。とくに、子どもやティーンエイジャーが発症するケースが多い。比較的めずらしいがんではあるものの、それでも毎年、世界中で約26,000人の新規患者が増えている。
「問題は35年もの間、新しい治療法が見つからなかったことです」と、獣医腫瘍学者のエイミー・ルブランは言う。しかも、既存の治療法にはそこまでの有効性はない。骨肉腫が転移した場合、患者の生存率はわずか30%程度だという。
しかし、ジェリービーンの臨床試験のようなイヌを対象にした研究によって、こうした状況を大きく変えられるかもしれない。ペットのイヌに発生するがんは、分子的にも、顕微鏡で見ても、ヒトのがんとよく似ている。骨肉腫の場合、その類似性は非常に高い。顕微鏡で見比べてみると、イヌの腫瘍の組織検体とヒトのそれは見分けがつかないほどだ。
骨肉腫は幸いなことにヒトにとってはまれな病気だが、イヌの場合は少なくともヒトの10倍は発生率が高い。つまり、世の中には骨肉腫にかかったイヌがたくさんいて、研究や新薬の試験に役立つというわけだ。タフツ大学カミングス獣医学大学院の獣医腫瘍学者で、ジェリービーンの治療を担当するシェリル・ロンドンは「臨床試験に参加する家族やイヌは、研究を前進させるパズルの重要なピースのようなものです」と言う。
重要なのは、イヌにはヒトの治療法を制限する連邦規制が適用されないということだ。現在有効な治療法がない疾患に対して、獣医は既存の医薬品の適応外使用を自由に行なえる。つまり、より迅速に、より安価に臨床試験を実施できるのだ。
こうした臨床試験は、ジョー・バイデン大統領が22年に再開し、24年度予算で米議会に28億ドルの割り当てを求めている「がんムーンショット」計画に盛り込まれている。「現状、マウスを使った従来の研究結果や、ヒトを対象にした研究で苦労して集めたデータだけでは埋められない知識の穴があります。そうした穴を埋めることがイヌの研究の目的です」と、アメリカ国立がん研究所で比較腫瘍学プログラムを指揮するルブランは言う。プログラムでは、がんを患ったイヌに対する臨床試験を実施している。タフツ大学のほか、米国とカナダの21カ所の獣医系大学で実施されている試験だ。
がん全般の理解を深める上で役立つ
毎年、多くのイヌががんにかかって治療を受けていることに加え、イヌが実験室のマウスよりも研究に適している点も重要だ。腫瘍はイヌに自然に発生し、イヌはヒトと同じ生活環境にさらされている。それに比べて、研究者はマウスをケージで飼育し、悪性の細胞を注入して、人工的な条件下でがんの転移や治療法を研究する。さらに、イヌの寿命はヒトより短いため、ヒトの研究よりも早く結果を見ることができる。
近年行なわれたいくつかの臨床試験から、イヌは治療に対してヒトと同じ反応を示すことも明らかになっている。19年、コロラド州立大学の科学者らは、骨肉腫が肺に転移した28匹のイヌを対象に臨床試験を実施した。科学者らは市販の抗がん剤に加えて、一般的な降圧剤であるロサルタンをイヌに投与した。ロサルタンは、腫瘍の増殖を助長するある種の白血球の動員を妨げることで免疫システムに作用する。
3年後、抗がん剤とロサルタンの両方を投与した結果、50%のイヌの肺で腫瘍の縮小あるいは安定化が見られた(ジェリービーンも、タフツ大学での並行研究の一環として、ヒト用としてはまだ未承認の3つめの薬とともに両方の薬を投与されている)。
ロサルタンの研究はすでに、ヒトに対しても波及効果を与えている。現在、難治性または再発性の骨肉腫を患う約40人の子どもが、治療の安全性と投与範囲を見極めるために、ロサルタンとイヌ用抗がん剤に相当するヒト用抗がん剤の投与を受けている。将来に向けた有望な一歩ではあるが、コロラド州立大学免疫・再生医療センターの獣医であり理事であるスティーヴ・ダウは、ヒトに対する影響を評価するには時期尚早だと言う。ヒトを対象にした臨床試験は、「イヌで活性が見られた大量投与の域にまだ達していない」からだ。
だが、実験段階のワクチンを使った臨床試験のなかには、すでに一歩先に進んでいるものもある。科学者と医師らが行なっているのは、バクテリアであるリステリア菌が骨肉腫のヒト患者の治療にどれくらい有効かを見極める試験だ。このたちの悪いバクテリアは、通常は食中毒を引き起こすものだが、弱毒化した状態では免疫システムを刺激する。
イヌの場合、ワクチンの接種後に免疫細胞が体内をパトロールし、通常療法後に残ったがん細胞を破壊することがわかっている。ヒトでも同じことが起きるかどうかを明らかにするための研究は、23年後半に完了する予定だ。この臨床試験の結果は期待できるが、国立がん研究所のイヌの研究は科学者にとってがん全般の理解を深める上でも役立つ、とルブランは言う。
例えば、血液検査とその後のDNA分析は、がんの発生と増殖を促す遺伝子を理解する上で重要な手掛かりになる。「今年は膨大な量のデータが集まり、骨肉腫にかかったイヌについて解明が進むでしょう。でも、イヌにはヒトとの大きな共通点がある一方で、異なる点もあります」とルブランは言う。
イヌのがんデータで機械学習
ペットのがんにまつわるデータが将来的に有用だということは、製薬会社も認識している。とくに、「プレシジョン・メディシン(精密医療)」(患者の遺伝子に特異的に見られる、がんを誘発する変異を標的に行なわれる個別化医療)の分野では、将来性が見込まれている。
この個別のアプローチはがん治療の究極形とみなされているものの、そのためには膨大な遺伝子情報を分析する必要がある。「新たながん治療法の開発にあたっては、薬の効能を正確に予測するための充分なデータを得るのが非常に難しい」と、スタンフォード大学で生物医学データ科学の助教を務めるジェイムズ・ゾウは言う。
23年1月に発表された研究で、ゾウと同僚らは、プレシジョン・メディシンに注目するOne Health Companyと協力して、イヌの研究を通じて有効な臨床データがさらに集まることを明らかにした。研究チームが行なったのは、コンピューターモデルを用いて、がんにかかったイヌの遺伝子変異と治療成績を比較することだ。さまざまな種類のがんを患い、米国の動物病院で治療を受けた800匹近くのイヌのデータを利用し、その腫瘍組織の配列を解析して変異を検出したのだ。
わずかな数のヒトの研究データと比較した結果、同じような遺伝子変異をもち、同じような治療を受けたイヌとヒトは、臨床結果も類似することがわかった。イヌのデータがヒト用の医薬品開発に役立つことが明らかになったのだ。
研究者がこのようなイヌのデータを利用し、どの遺伝子と薬剤の組み合わせがイヌに有効かを分析できるようになれば、ヒト用の医薬品をゼロから開発する必要はなくなる。イヌ用の既存の医薬品を別の用途に使ったり、ヒトに使うために改良を加えたりすることが可能になるだろう。
抗がん剤の従来の開発パイプラインは少なくとも10年の期間を要し、数十億ドルの費用がかかる。臨床試験のために充分な人数の被験者を集めるのは非常に難しく、時間も費用も必要だからだ。イヌのがんデータに機械学習を適用すれば、このプロセスをスピートアップできる可能性がある。
バイデン大統領のがんに関するビジョンを達成するためには、こうしたアイデアを実行に移す必要がある。今後25年間でがんの死亡率を少なくとも半分に減らしたいと大統領は言う。そのためには、死者数の多いがんだけでなく、骨やリンパ線や脳のがんなど、非常にめずらしいがんについても改善していかなければならない。こうした希少がんについては、臨床的な専門知識が依然として不足し、潜在市場が小さいため、製薬会社にとっては臨床試験を実施する動機が弱い。こうした状況で、医薬品の試験費用を引き下げられる方法があれば大いに役立つだろう。
ルブランの考えでは、ゾウの研究はプレシジョン・メディシンの可能性を明確に示していて、管理された環境下でイヌに薬剤を投与し、一定期間にわたってデータを収集するフォローアップ研究のきっかけになるという。だが、がんにかかったイヌは研究対象である前に、治療を施すべき患者だ。研究や新薬の開発は、引き続きこの原則に従って行なうべきだとルブランは考えている。「イヌは人間の研究に役立ってくれますが、イヌの世話とイヌ自身の幸せが常に最優先です」とルブランは述べる。
これはジェリービーンの飼い主にとっても最優先事項だ。タフツ大学の臨床試験で同じ治療を受けた23匹のイヌのなかで、ジェリービーンだけがまだ生きている。生存期間の中央値は約5カ月だった。「タフツ大学が行なってきた研究とその背後にある科学が、わたしたちの生活に大きな影響を与え、わが家の愛犬を救ってくれました」とパトリシアは言う。継続的な治療と定期的な検査が、将来的にほかのイヌや人々の助けになるかもしれないと知って、パトリシアは嬉しく思っている。「でも、日々のなかで大事なことはひとつしかありません。ジェリービーンが、まだわたしたちと一緒にいるということです」
(WIRED/Translation by Miho Michimoto, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)
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