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70代にしてスタイル抜群。その秘訣を日本舞踊とボイストレーニングだと明かし、内面から輝くような笑顔を見せる女優の仁科亜季子(70才)。しかし今日までの道のりは決して平坦なものではなく、38才で子宮頸がん、46才でGIST(消化管間質腫瘍)、55才で小腸がん、65才で大腸がんと、これまでに4度のがんを乗り越えてきた。仁科にとっていちばんつらい経験だったのは、1991年にわかった1度目のがんだ。
「当時の夫(故・松方弘樹さん)は仕事で留守にすることが多く、まだ8才と6才の幼い子供の子育てに忙しい時期でした。がんだなんて夢にも思いませんでしたから検査結果はひとりで聞きに行ったんです。でも先生が口ごもっていて。その様子がまるでテレビや映画のワンシーンみたいで、逆に私自身は冷静になってしまいました。
告知後に先生から『ひとりで帰れる?』と心配されましたが、強がりな性格なので『大丈夫です』と病院を出ました。だけど車に乗り込んだ途端、どうしていいのかわからなくなって涙がぶわっとあふれてしまい、2時間は泣いていたと思います」(仁科・以下同)
「がん=死」というイメージが強かった30年前、子供たちを残して死ぬことは絶対にできないと考えた仁科は「どんな形でもいいから10年は生かしてほしい」と医師に頼んだ。
「抗がん剤、子宮・卵巣の摘出手術、放射線治療を受けることになったのですが、入院期間は6か月に及ぶと言われました。実際は4か月でしたが、これほど長く子供たちと離ればなれになってしまうことがいちばんの気がかりでした。
いざ抗がん剤が点滴されると、お腹の中でドリルがコンクリートを打ち砕くような苦しみで、吐き気も一日中、止まらない。髪は多い方でしたが、3日ほどでごそっと全部抜けました。抗がん剤の副作用が強かったし、体への負担が大きかったんです。手術でリンパ節も切除したので、リンパ浮腫で足もむくみ、特に左足は象の足のようになってスカートは10年以上はけず、いまでも左足が2cmほど太いです」
大きく外見が変わったことを気に病む仁科をよそに、子供たちは髪が抜けた母の頭を、「一休さんみたいだね」と笑顔でなでた。そうした家族の温かさはもちろん、医師たちの優しさにも助けられたという。
「あるとき、先生が顕微鏡でがん細胞を私に見せて、『これがきみの敵だよ。生半可な敵じゃない。だからがんばろう。ぼくも命懸けでがんばるから』とおっしゃったんです。
患者の立場からすれば、いくら治療法を調べたところで、いざ受けるとなったら、まな板の鯉。先生にすべてをお任せするしかないので、医師との信頼関係はとても重要です。不安を抱えたままでは前向きになりにくい。私は幸い、すごくいい先生と巡り会えた。思うところがあるなら『戻ってくるかもしれません』とお伝えしつつ、セカンドオピニオンを受けてみるという選択もあると思います」
家族の温かさや医師との巡り合わせを「ハッピーだった」と感じる一方、「なぜ自分が」と理不尽に思うことは幾度となくあったと振り返る。
「人間の細胞は体の中で絶えず分裂していて、遺伝子のコピーミスによってがんが生じると聞いたことがあります。私はお酒もたばこもやらないのに、なぜ何度もコピーミスが起こるのかと悔しくなったこともあります。だけどきっと、きっと、神様のいたずらなんでしょう。おこがましい言い方ですけど、生かされているいま、体力のある限り笑顔で元気に過ごして、講演などを通して経験を伝え、少しでも誰かの役に立ちたいと思っています」
【プロフィール】
仁科亜季子(にしな・あきこ)/1953年東京都生まれ。1972年学習院女子高等科在学中、NHKプロデューサーに女優をすすめられ、卒業後にドラマ『白鳥の歌なんか聞こえない』でデビュー。38才で子宮頸がんを宣告された後、計4か所のがんが判明。手術と治療を重ねながら今年で70才を迎えた。
※女性セブン2023年10月5日号
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