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『アルツハイマー征服』
下山進著
KADOKAWA

ある日、都心で会議をしていたら、参加者の携帯電話が鳴った。その人は電話を取ると、二言三言やり取りした後「警察からでした。母が徘徊しちゃうんです」と、慣れた様子で言った。これは超高齢化社会では珍しくない光景だ。離れた街に住む老親を介護するため、会社づとめをやめた人は少なくない。

アルツハイマー協会のウェブサイトによれば、日本では460万人、世界では4400万人以上が認知症を抱えて生きている。アルツハイマー病は認知症の症例で6~8割を占めていて、日常生活に支障をきたすような記憶、認知、行動の問題を引き起こす脳の病気である。

本書はアルツハイマー病の特効薬開発に従事する大学や製薬会社の研究者、患者とその家族を描く医療ノンフィクションだ。各章末に記された学術論文と取材協力者のリストを眺めるだけでも、一般書としては異例の密度が伝わってくる。

“ヒーロー”だけの物語ではない。

アメリカをはじめ、世界ではアルツハイマー病を公表する著名人が増えている。アメリカ元大統領のドナルド・レーガン(右)もそのひとり。1994年から2004年に亡くなるまで氏の闘病生活を支え続けた妻ナンシー(左)は、その後もアルツハイマー病の治療法の研究や患者支援に尽力した。Photo: Getty Images

この本の魅力は、アルツハイマーを「征服」する特効薬の開発に関わった人々について「分かりやすいストーリー」にまとめなかったところにある。世界中で膨大な数の人を苦しめる病気を治せるなら、それはまさに夢の薬だ。そんなに簡単に作れるわけはなく、開発が途中で頓挫することもあれば、開発資金確保という経営判断も関わってくる。研究者も人間だから、志半ばで亡くなることもある。そして、研究過程で捏造が見つかることもある。そうした様々な出来事に関わる人の悔しさ、無念さを本書では包摂している。成功者のみに焦点を当てた物語ではないところが良い。

中でも特に印象に残るのが、アルツハイマー病の治療薬開発に関わったラエ・リン・バーグという女性研究者である。スタンフォード大学の研究所で働いていた彼女は、ある日、自動車を運転しながら簡単な計算ができないことに気づき、専門医の診察を受けて初期のアルツハイマー病と判明する。

まだ60代始め。研究者として働き盛りの脳を病気が蝕む中、彼女は自ら開発した薬の治験に被験者として参加する。思考や認知の機能が衰えても、科学を通じて人の役に立ちたい、というラエ・リンの思いは変わらない。淡々とした描写が心を打つ。

レーガン大統領(当時)の指名により、女性初のアメリカ合衆国最高裁判所判事となったサンドラ・デイ・オコナーもまた、アルツハイマー病だった夫ジョン・J・オコナー三世を約20年にわたり支え続けた。自身も2018年にアルツハイマー病のような認知症を患っていると公表。Photo: Diana Walker/The LIFE Images Collection via Getty Images

こんな具合に、科学者やその家族、患者やその家族として多数の女性が登場する。自ら治療薬の開発に従事する人。科学者である配偶者を支える人。40代半ばという若さで遺伝性のアルツハイマー病を発症してしまった人。患者の家族として国際会議でスピーチをする人。物語の要所に重要な役割を果たす女性が出てくる。

こうした「女性たちの描かれ方」もまた、私が本書に感じた大きな魅力だった。重いテーマだが、彼女たちの生き方、発言には不思議な希望を感じる。青森県の女性患者のストーリーから始まり、患者家族の女性の話がラストを飾る物語の要所に女性が登場する。

実は、著者の前作『2050年のメディア』(文藝春秋)にも、私は似た感想を抱いた。こちらは大手新聞社やウェブメディアなどを舞台にした産業ノンフィクション。日本の大手メディアの人員構成を反映し、主要な登場人物は男性が多い。加えて、弁護士や新聞社社員、大きな事件に巻き込まれる人物の家族など重要な役回りに女性がいて、彼女たちが生き生きと描かれていたのである。

ケアとジェンダー。

俳優キャリー・マリガンは、祖母がアルツハイマー病であることから、2012年からイギリスの認知症患者の支援団体、Alzheimer’s Societyのアンバサダーを務めている。写真は、2019年の同団体主催のクリスマスキャロルにて。Photo: David M. Benett/Dave Benett/Getty Images

私は「男のロマン系」の話を好んで読む。産業、国際政治の交渉、そしてスパイもの。実話でも創作でも、大きな視野で物事が展開していくと、わくわくする。ただし、それらの多くには致命的な欠点がある。登場する女性が判で押したようにステレオタイプであることだ。外で戦うのは男性。家庭で彼を待つのは良妻賢母、職場にいるのは補助的仕事の若い女性か怖い年増女性。

いつまで昭和をやっているのか、と思うと興ざめしてしまう。女性を古い型にはめるのではなく、かといって無理な賞賛をすることもなく、ただ、そこにいる人間として公平に見てくれればいいのに。

そんな風に思っていたので『アルツハイマー征服』著者の筆致には共感するところが多かった。優れた医療ノンフィクションである上、女性がフェアに描かれているからだ。

3月末に著者に会う機会を得て尋ねてみた。「女性を自然に描くにあたり、何を考えていますか」。すると、特に男性・女性と意識して取材執筆をしているわけではないこと、物事には様々な面があるから決まった角度ではなく、多方面から取材をしている、という答えだった。ジャーナリズムの王道を実践した、ということになるだろう。

私の質問が下手で核心に迫れなかったなあ、と反省しつつ、本書を改めて読み直していた時、目に留まったのは、アルツハイマー病に罹った妻や母を介護する男性達の姿だった。

60代でアルツハイマー病を発症した科学者ラエ・リン・バーグの夫もまた、科学者である。彼は妻を質の良いケアの介護施設に入れるため、自宅を売って子どもの家に同居する。地下の光がささない部屋に住み、仕事と妻の見舞いを続ける。

別の男性は妻の介護のために職と家を失い、トレイラーハウスに住みながら看病している。なぜそこまで、と医師に理由を問われると、薬を飲むと、妻が自分のことを分かる時があるのだ、と涙ながらに話したという。

製薬会社エーザイで高卒でありながら研究職に従事し、左遷の憂き目に遭いながら研究を続け論文博士を取得し、治療薬づくりに携わった杉本八郎にも、個人的な思いがあった。苦労して自分たちを育て上げた母が晩年苦しんだアルツハイマー病を治したいという執念である。

本書が伝えるのは治療薬を作る「男性科学者のロマン」だけではない。愛する人がその人たりうる自我と尊厳を保ったまま老年期を送れるようにしたいという「ケアの論理」を持つ男性たちの姿だ。女性を生身の人間として的確に描写する筆は、家庭人としての男性の苦悩もまた、そこに当然あるものとして、描き出すのである。

Text: Renge Jibu Editor: Maya Nago

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