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寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】北上川に山々の雪解け水が満ちていた4月下旬の土曜日、取材に向かったのは、北上市立花の軽石房子さん(80)宅。広い畑のある家の前に軽乗用車が何台も止まっていた。「パミスの家」の初めての集いだった。会の名は、集いの場の提供者、軽石さんの名字の英語訳。参加者はがんの患者や経験者の女性たちで、和やかなおしゃべりと笑いを響かせる。今年3月、患者らの自助活動として全国に先駆けた同市の「ペイシェント・アクティブ びわの会」が20年の歴史に幕を閉じたが、「生ある限り、温もりある支え合いがほしい」―。そんな願いを有志たちが受け継いだ。  

「パミスの家」に集う女性たち  

訪ねた午後は、最初の書道教室の時間を終えて、おしゃべりのさなかだった。50代から80代の女性たちが日ごろ抱く気持ちを、笑いにまぶして打ち明け合う。  

 「なんぼ暇でお天気が良くても、何にもしたくない日はどうしたらいい?」、「うちにいれば、旦那がいるでしょ。無口な人で、しゃべることがない」。  
「声を出すことが大事よ。声が出なくなったら、何も伝えられなくなるよ」、「歌っこを歌うと、楽しくなるよね」、「大きな声を出せなくても、ささやくようにでもね」、「私は『一人カラオケ』が好き。だから元気なんだよ」。  

がんの患者にならなければ、出会うこともなかった縁だ。軽石さんの夫盛男さん(76)は食道がんになって「びわの会」に参加した。びわの会有志と親しい合唱仲間が軽石さんを元気づけようと、自宅前のリンゴ畑でコンサートを開いた。 

「前日、軽石さんは下血して輸血し、『中止しましょうか』と言った私に、『断固やりましょう』と答えた。アコーディオンの演奏、歌声が響き、この1カ月後に軽石さんは亡くなり、お別れの演奏会となりました」と、世話人の高橋みよ子さん(69)は語る。それが、「パミスの家」の場を妻房子さんが提供するきっかけになった。 

びわの会の創設メンバーで、20年の活動を支えた高橋さん(右端)と吉川さん(左端)=2022年5月8日、北上市内(筆者撮影)

パミスの家の発起人代表は一番若い40代の女性だ。農業に夢を抱いて関東から移り住み、ここで出会った夫と二人で自然農法に挑んでいる。大腸がん4期と告知され、病院で手にしたびわの会のチラシから、高橋さんたちの仲間になったという。「まぶしいほどの行動力の人。この春、抗がん剤治療を続けながら3年目の田植えを私も見守りました」と高橋さんは応援している。 

今年3月で20年間の活動に終止符を打った、地元のがん患者と経験者の自助グループ「びわの会」。高橋さんは3代目会長だった。解散後、孤立したら、どこへ行けばいいか分からず、なお集いの場を必要とする人たちがいた。ステージの重い人はとりわけ。良い情報や助言があれば、考え方や生き方も変わり、助かる人がいるかもしれない。それなら自分たちで集おう―という有志の声から生まれた場が、パミスの家だった。  

行動する患者を目指した「びわの会」  

びわの会誕生は2002年5月20日。こんないきさつがある。高橋さんは40代で乳がんになり、「父は既に亡く母も高齢。医師のあいまいな説明に不安と不信を感じてセカンドオピニオンを求めた病院に命を預ける思いでした」。その時、親身に相談に乗ってくれたのが、常連だった市内の喫茶店「蘭燈(らんたん)」の主、高橋蓉子さん(故人)だった。01年に進行性のスキルス胃がんと分かり手術を受けたが、「がんを先に経験した私も含め、女性の『がん仲間』が集まった」と高橋さんは振り返る。蓉子さんの小中学校の同級生で、肺がん手術をした黒田弘子さんもいた。  

蓉子さんの退院後も、集った女性たちは自然療法、食事療法、医学情報誌のことなど語り合った。「乳がんの会はあるのに、他のがんの会はないね」「いろいろながんの人たちが情報交換できる会があればね。それならば私たちでつくろうか」。そんなやり取りから自助グループが生まれた、と黒田さんは会報第1号に記した。  

蘭燈には、がんの知識や闘病体験、療法など、会員が集めた本100冊余りの文庫もできた。びわの会の名は、医師から見離されながらも自立生活を求めた蓉子さんに、元看護士の黒田さんが施した「びわの葉療法」(ビワの葉を煎じての足浴マッサージ)に由来する。「告知されて誰にも頼れず、悩み、生活にも困る女性は多い。そんな気の毒がられる存在でなく、自らが行動し、仲間と知恵を集めて助け合おう」(高橋さん)との決意が、「ペイシェントアクティブ(行動する患者)」に込められた。  

わが家のような緩和ケア病棟が実現   

初代会長の蓉子さんは同年11月に56歳で逝き、遺志を継いで、自身も再発の痛みを抱えた黒田さんが2代目に。高橋さんは、肝臓がんと闘病しながら世話役を引き受けた高田宏子さん(07年、53歳で他界)らと一緒に、会員の女性たちの病室や療養中の家を訪ねた。働いている人、子育て中の人、親を介護する人、夫の手助けがない人もいた。「そんな仲間のために何かできることはないか、と懸命だった」と言う。「自分も当事者の一人。助けてもらいたい時に助けてと言える関係をつくりたかった」  

黒田さんは、訪問看護を受けての在宅緩和ケアを選んだ。病室のベッドでなく、いつも家族と過ごしたいと願って。そして、「誰でも自分の家のように安らいで過ごせる緩和ケア病棟が地元にあってほしい」と、びわの会の仲間と運動を起こした。  

そのころ北上市と隣の花巻市にあった県立病院統合が具体化し、緩和ケア病棟も盛り込まれた。が、会が要望したのは、平屋で庭があり、わが家のように過ごせる場。地元の別の患者会とともに2カ月で8千通余りの署名簿を集め、当時の増田寛也知事(後に総務相)に直談判の陳情をした。黒田さんは東京で肺の放射線治療を受けたばかりで、「か細い声をいっぱい振り絞って要望を読み上げた。心を動かす強さがあった」と高橋さん。要望は5年後に実現し、黒田さんは05年3月に58歳で逝った。  

柳原和子さんが会に託した希望  

春と秋、爽やかな自然を満喫した里山散策会=2023年5月8日(筆者撮影)

びわの会が毎年の春と秋に催す「里山散策会」に、筆者は何度か参加させもらった。史跡がある市内の国見山(標高244㍍)のハイキング。新鮮な空気を吸って、季節の花を愛で、歴史を学び、「今年も元気に歩けてよかった」と笑顔で称え合った。なじみの医師や看護師らも一緒に汗をかき、秋は名物「芋の子汁」に舌鼓を打った。  

里山散策会は、黒田さんが他界した05年に始まった。会主催のクリスマスコンサートも恒例の楽しみになり、09年からは「私たちが知識を持とう、医師に会って質問しよう」(高橋さん)という自立への学びの場「患者の学校」も開講した。それにもきっかけがあった。ノンフィクション作家、柳原和子さんとの出会いだった。  

喫茶店「蘭燈」の図書コーナーにも置かれた『がん患者学』(晶文社刊)などの著者で、卵巣がんとの闘病の場から、治療の可能性と限界、人間らしい生き方への問いを自らの体験を通して記録した。「私の希望の人だった」と高橋さんは北上での講演に招き、05年10月に来訪。そこで、柳原さんは「研究のために患者がいるのではない。医師は、患者に徹底して寄り添うべきだ。患者も納得いくまで対話しよう。治療を選ぶことは生き方を選ぶこと」と熱く語り、会員たちとの鮮烈な出会いとなった。  

創設メンバーの副代表、吉川伸子さんは「私たち東北人は、地元病院の医師に従い、疑問や本当の思いを我慢し、求めたい医療を諦めてきた。患者は弱者じゃなく、主人公でなくちゃいけない。そんな目覚めをもらった」と今も思い返す。柳原さんは里山散策会にも参加して会員たちと交流を深め、07年7月、再度の講演に訪れた。体調の悪化を押しての来訪だったが、壇上から会員たちに「がんを得て仲間と出会え、人生が豊かになった」「命をつなごう。死んでいった仲間の言葉や心を。明日に生きる意味も見えてくる」と力強く語り掛け、びわの会へ希望を託して翌年3月に亡くなった。  

柳原和子さん講演会での会員の反響を伝えた「びわの会」の会報=2007年8月

かけがえのない戦友たちの死  

患者の学校は、最新のがん治療や、肺がん、乳がん検診、放射線治療、在宅医療、治療と心のケアなど、高橋さんたちが縁を深めた県立中部病院(北上市に統合・開設)の医師らを招き、ほぼふた月おきの開催を重ねた。医師たちからも「治療方針は医療者と患者、家族の共同作業で決めるもの」との言葉が聞かれるようになったという。また、がんを体験した人や家族らが「体験を共有し共に考える」ことで支援する「がんピア(対等な仲間)サポーター養成講座」、同病院「がん情報サロン『虹』」の相談ボランティア、地元・夏油温泉での泊りがけの「健康塾」や、自らのがん体験から吉川さんが提案し始めた「健康太極拳教室」など、会の活動は多彩に広がった。  

温泉の癒しとゲストのセミナーで健康づくりを学び、交流した「夏油温泉塾」=北上市(高橋さん提供)

吉川さんは、11年の東日本大震災の日々の多くを郷里大船渡市で過ごし、地元の綾里中学校の避難所や、仮設住宅でボランティアとなって被災者を支えた。「震災とがんは似ている」と吉川さん。身内を突然失った被災者の悲哀に触れ、「今日会った人が明日はいない―という、末期の仲間を送った辛い思いに重なった」。心と体を温めるアロママッサージなど活動は、年配者らが仮設住宅を離れた後まで続いた。  

びわの会が20周年記念事業として「ありがとう 感謝の集い」を催したのは昨年10月。他界した仲間の遺族、応援してくれた市民、医療関係者ら100人以上が集った。解散は前年から会員が何度も話し合って決めたという。「びわの会は結成から当事者の自助活動。20年もの間、厳しい病気を抱えながらこの会をつくり、頑張った仲間が大勢亡くなっていった。彼女たち、彼らへの思いが募ってならない。これからは必要とする人が新しい場をつくっていけばいいと思う」と高橋さん。会員は38人(準会員、協力会員は計83人)だが、力尽きた仲間も40人を数えた。皆、かけがえのない戦友だった。  

地域で受け継がれていく仲間の絆  

びわの会は20年の活動を終えたが、吉川さんは健康太極拳教室を同好会として今年も続けている。やはりがん経験者で会員だった夫の一郎さん(76)も先月、自らが主宰する「山たびの会」を、里山散策会と同じ国見山で催し、長年の仲間も一緒にトレッキングを楽しんだ。会が培った和やかな集いの場はこうして自然と受け継がれていきそうだ。  

話は冒頭の「パミスの家」に戻る。軽石さん宅ではその後、メンバーがやってみたかったという「輪読会」が始まった。美しい歌を贈り物に残して去った若者を探す少女の童話が朗読され、一同は聴き入ってしんみり。それが終わると、高橋さんが持参したキーボードを鳴らし、皆が歌い始めた。『涙そうそう』や『糸』を和やかに。  

高橋さんの伴奏で声を合わせる「パミスの会」の参加者=2023年4月22日(筆者撮影)

ピアノ教師をしてきた高橋さんは、1年余り前から自宅で「うたっこの会」(毎月第2火曜)を開く。「抗がん剤治療の副作用がきついと電話をしてくる仲間に、何か夢中になれるものはないかと尋ねたところ、『歌をうたうのが好き』と言われたのがきっかけでした」。そこにも仲間は集っている。長年クリスマスコンサートで世話になり、引退した教会の牧師さんも輪に加わった。胃がんに加え脳梗塞になり『言葉がすぐに出にくくなった』というが、歌えば、メロディーも詞も朗々と流れだすという。 いつも互いを気遣い、心を支え合い、励まし合った、びわの会の絆は地域で受け継がれていく。  

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