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かつては緩和ケアはがんの「終末期」と強く結びつけられていた。しかし、日本人の2人に1人はがんに罹(かか)り、治癒の可能性が高くなってきた。いかにがんと共生するかが大切である。近年はがんと診断されてから緩和ケアが始まるという考え方が広がっている。ジャーナリストの村上敬が、大阪・千船病院の緩和ケアチームに密着した――。
* * *
毎週金曜日の午後2時。
千船病院の緩和ケアチーム――医師、認定看護師、理学療法士、作業療法士、ソーシャルワーカー、薬剤師、管理栄養士――の面々が「ラウンド」を開始する時刻だ。
ラウンドは、回診や見回りを指す医療用語である。緩和ケアを必要とする患者が入院する病棟をチームで回り、主治医や病棟の看護師と情報交換をしながら緩和ケアの方針を決めていく。
緩和ケアは、がんなどの病気と診断されて以降、身体的症状の緩和や精神的な支援によって患者の生活の質(QOL)を改善する医療ケアを指す。緩和ケアチームと患者との関わりは、緩和ケアを必要とする病棟の医師や看護師から寄せられる介入依頼がスタートになる。緩和ケア認定看護師が患者周辺のスタッフから情報収集を行なったうえで、直接患者のもとに行き、患者の抱えるつらさに耳を傾ける。緩和ケア認定看護師がまとめた情報をもとにラウンドが行なわれ、適切なケアを探っていく。
この日のラウンドでは、緩和ケアを必要とする患者数人について情報交換した。たとえば患者の山本さん(仮名)は最近、食欲が落ちていた。それに対して医師の竹嶋好は、食欲増進効果があるアナモレリンの処方を提案した。
「ただ、適応条件がいろいろあるんです。山本さんはどうですか」
チームのまとめ役である認定看護師の岩本真由子が、すかさずカルテに目を走らせる。
「山本さんは適応外ですね。残念やな」
すると理学療法士の竹井夕華が新しい情報を提供した。
「食欲ないんですか? リハビリのとき『〝KYK〟(関西の有名とんかつチェーン)のとんかつ食べたい』って言ってはりましたよ」
それを聞いて管理栄養士の荒川綾子が顔をほころばせる。
「本当ですか。ちょうどよかった。明日の献立、カツサンドです。1個確保するよう手配しときます!」
荒川がその場で手配の電話をしている間も話は続く。「もし確保できなかったらがっかりするやろうから、そのときはテイクアウトしに行こうかな」と岩本。「KYK、おいしいですもんね。私も食べたいわ」と他のメンバーも同調する。
緩和ケアラウンドは、その性質上、もっと重苦しい雰囲気の中で行なわれるか、あるいは逆にプロフェッショナルとして感情を排して淡々と進められるものだと想像していた。しかし、千船病院の緩和ケアチームは思いのほか和やか。専門家としての知見を交えつつも、まるで友達を見舞うかのように患者のケアについて話し合っている。
温かみのある緩和ケアチームがいかにして形成されていったのだろうか。時計の針を巻き戻してみよう。
■親しい後輩の看取りを機に認定看護師になると決意
千船病院の緩和ケアチームの生みの親が、認定看護師の岩本である。
岩本が看護の道を志したのは小学校4年生のときだ。母親から買ってもらったナイチンゲールの伝記がきっかけだった。幼いころから父の転勤で引っ越しが多かったが、小学校5年生からは兵庫県に落ち着く。小中の職業体験では看護師を希望。その後もナイチンゲールへの憧れは色あせることなく、高校卒業後は、千船病院など複数の病院を運営する愛仁会の看護助産専門学校に通った。
「実習で、脳梗塞で思うように体を動かせなかった患者さんが、看護師の助言や励ましで動かせるようになった場面をよく見ました。もちろん患者さんの力が一番ですが、その力を信じて引き出す看護師の力もすばらしいなと」
卒業後は千船病院に就職して、外科病棟の配属になる。
「当時は22時頃まで先輩が付き合ってくださり、その日の看護の振り返りをしていました。新人同士でもその日教わった手技をお互いにやって復習したり。大変でしたけど、充実した毎日でした」
看護の仕事を考え直す機会が訪れたのは5年目だった。後輩の看護師が乳がんを患ったのだ。
入院するにあたって、後輩から看護担当をしてほしいと申し出があった。親しい人のケアをするのは初めての経験。とても冷静ではいられなかった。
「先生と意見がぶつかることもありました。先生も後輩のことを思って苦しみながら治療されていました。でも、私は後輩の生活の質のこと、遺されるご両親の気持ちなど、どうしても治療以外のことに気持ちが向いてしまう。今なら治療と生活の両方を考えながら冷静に判断できたと思いますが、あのときは偏った判断しかできなくて……」
自分の力不足も痛感した。緩和ケアでは、患者の疼痛や息苦しさ、倦怠感、浮腫などを取り除くケアを行なう。その知識や技術が圧倒的に足りなかったのだ。
「彼女とは看取りまで一緒でした。自分が担当する以上、絶対苦しい思いをさせないでおこうと誓っていたんです。でも、最期は『痛い、痛い』って。ほんまに申し訳なかった。苦痛を訴える声は今も耳に残っています」
いくら思いが強くても、気持ちだけでは患者の苦しみを和らげることはできない――。
そう実感した岩本は緩和ケア認定看護師の資格取得を上司に直訴した。資格取得には学校に半年~1年間通う必要があり、その間は病棟勤務ができない。同僚に負担をかけることは心苦しかったが、まわりは快く送り出してくれた。
そして、2009年、認定看護師を取得。千船病院に戻ると、さっそく上司に相談して緩和ケアチームを立ち上げた。
チームと言っても、最初は岩本と外科医長の2人だけ。当時は現在ほど積極的に緩和ケアに取り組む急性期病院が多くなかったこともあり、院内でもチームの存在は知られていなかった。医師や看護師に認知されないと依頼も来ない。まずは各診療科へのラウンドから始めて、緩和ケアに関する困りごとを拾っていった。
現場で主に困っていたのは医療用麻薬に関することだった。痛みを和らげる薬はたくさんあるが、患者の考えや病状の進行によって相応しい薬は異なる。それらを総合的に考慮した場合に最適な薬は何なのか。専門外の医師や看護師には見極めが難しく、緩和ケアチームにぽつりぽつりと相談が舞い込み始めた。
緩和ケアチームの存在が知れるにつれて、医療用麻薬以外の相談も増えていく。
「患者の辛さをやわらげるマッサージ方法を教えて欲しい」
「食が細くなっても食の楽しみを味わってもらうにはどんなメニューがいいのか」
「在宅でケアしたい場合、家族はどうすればいいか」
より専門的な知識や技術が必要だと感じた岩本は、リハビリテーションセラピストや管理栄養士、ソーシャルワーカーなどに働きかけてチームの多職種化を進めた。メンバーは替わっているものの、2年目にはほぼ現在と同じ職種構成になった。
チームが院内で頼られる存在になったと実感できるようになるまで、発足から10年前後を要した。医師や看護師から「がんの告知に同席してほしい」「精神的に辛そうな患者さんがいるので、一度話を聞いてほしい」という依頼が増え始めたのだ。
がんと診断されると、医師が治療の選択肢を患者に伝える。医師は書面や画像を使いながら丁寧に説明するが、その場では受け止められない患者がほとんどだ。そこで岩本は医師からバトンタッチを受け、患者に寄り添い、内容をきちんと理解したかどうかを確認する。
医師から連絡があると、岩本は何を置いてもすぐ駆けつけることを自分に課している。「患者さんは一日一日、一分一秒が大事。私とは時間の重みが違う」という思いがあるからだ。
「告知のときは、『うんうん』と聞いていた患者さんが面談室で『何がんやったかな?』と尋ねたり、落ち着いて見えた患者さんがいきなり泣き崩れることもあります。そうした状態で治療の意思決定をするのは難しい。まずは感情を吐き出してもらうことが私の役目。その後、気がかりや困りごとを確認して、緩和ケアチームの他職種につないでいます」
チームの立ち上げから13年。院内で認知が高まっただけでなく、チームとしての成長も感じている。
「患者さんに合ったケアをするには、どのような人生を送ってきたのかというライフレビューを知ることが大切です。千船病院緩和ケアチームの強みは、みんなの情報を集結して患者さんを知ろうとすることに一生懸命なことだと思います」
では、岩本自身の成長はどうだろうか。後輩を看取り、自分の力不足に悔しい思いをした日々から何か変わったのか。そのように問うと、岩本は少し考えて答えた。
「患者さんの生きる力を信じられるようになりましたね。生きる力って、生命力とはまた違うんです。がんと診断されて辛くない人なんていません。そんな中から少しずつ前を向いていかれます。『がんになったからあなたに会えた』とおっしゃる患者さんもいれば、『奥さんにありがとうなんて今まで言ったことないけど、言うとくわ。最期くらいいい夫でおらんとな』とおっしゃった患者さんもいた。がんになっても新しく関係性を築いたり、精神的に成長し続けられる。そう教わって私自身も勇気をもらいました」
■「娘のウェディング姿を見るまで死なれへん」
緩和ケアチームの中心は認定看護師の岩本だが、患者と接する時間が岩本以上に長いのはリハビリテーション科の竹井だろう。
理学療法士の資格取得後、まず愛仁会リハビリテーション病院で回復期病棟での勤務と訪問リハビリを経験。2021年に千船病院へ異動した。異動前の病院の患者は回復期や生活期だったが、千船病院は急性期。戸惑いは大きかった。
「回復期や生活期の患者さんは病状が安定しています。しかし、急性期はちょっとしたことで容態が急変しかねない。少し動いただけで血圧が下がる場合もあります。リスク管理が難しいと思いました」
戸惑いの理由はもうひとつあった。上司から「緩和ケアチームへの参加を前提とした異動」と告げられていたからだ。当時、緩和ケアの研修を受講済みの理学療法士は、その上司1人のみ。体制強化のため他にも研修を受けさせる方針が決まっていて、竹井は候補の1人だった。
「自分にできるんやろうかと不安でした」
夏に研修を受け、緩和ケアチームの一員としてリハビリを担うようになった。実際にやってみると、緩和ケアは回復期のリハビリと違う点が多かった。緩和ケアでは患者によってリハビリに求めるものが大きく異なる。たとえば「トイレは自分で行きたい」と頑張る患者もいる一方で、「もう頑張るのはしんどい。もう楽にさせてや」と動くことを拒む患者もいる。後者は、やはり緩和がテーマになる。
「息苦しさのある患者さんは肩で呼吸をするので、首や肩の筋肉が凝りやすいんです。そこをマッサージするだけでも楽になる。これも理学療法士の大事な仕事です」
リハビリは1回20~40分。コロナ禍で家族の面会が難しい中、理学療法士は患者にとってもっともゆっくり会話できる相手だった。
「みなさんいろいろ話してくださいます。『ほんまに家に帰れるんかな』『家に帰ったら家族に迷惑かける』と不安を漏らす方から、『もうすぐ娘の結婚式。ウェディングドレス姿を見るまで絶対に死なれへん』と希望を語る方まで、ほんまにいろいろです。どちらにしても話をすることが癒しになるんでしょうね。『竹井さんが来てくれるから抗がん剤も頑張れる』と言われると、私でも役に立てたんやとうれしくなります」
患者から聞いた情報はチームで共有する。冒頭に紹介した「KYKのとんかつを食べたい」という患者の希望も、竹井がもたらした情報だった。
逆にリハビリに必要な情報をチームから収集することもある。
「病院食は薄味だから、ローソン(千船病院1階)のお菓子が食べたいという患者さんがいました。自分で買いものにいけば、いい運動になります。ただ、食べていいものといけないものがあるから、すぐにチームの管理栄養士さんに電話して確認を取りました」
千船病院は急性期病院であり、治癒するにせよ終末期に向かうにせよ、多くの患者はいずれ次のステップに進んでいく。送り出した後の患者の状態はつねに気がかりだ。その思いを知ってか、次の場所から様子を知らせてくれる患者もいる。
「次の病院に移られた患者さんから、私宛に『もうすぐ退院です』とお手紙が届いたことがありました。名前を覚えてくれていたこともうれしかったですが、それ以上に手紙を書けるくらいに元気になったことがうれしくて。理学療法士冥利に尽きますね」
■経験豊富な医師の参加で緩和ケアがレベルアップ
2021年4月、緩和ケアチームに経験豊富な援軍が加わった。呼吸器内科部長の竹嶋だ。
緩和ケアとの出会いは医師になって7年目。当時の勤務先では呼吸器内科を中心として緩和ケアチームが運営されており、竹嶋も自動的に組み入れられた。実は当初はいい印象がなかったという。
「急性期の診察が多忙で、余裕がありませんでした。また、当時はチーム医療がいまほど広がっておらず、チーム医療そのものの難しさもありました。最終的にリーダーまで任されたものの、正直、負担でした」
しかし、その後、がん患者の治療経験を重ねる中で見方が変わっていく。
「私自身が年齢を重ねたことが大きい。親を亡くしたり、自分ががんになったときのことを考えるようになって、がんという病気を治すことだけでなく、人生を見なくちゃいけないなと考えるようになりました。あと絶対に苦しんで死にたくないなあって思って……」
緩和ケアの大切さに気づいて、緩和ケア病棟で働いたこともあった。しかし、これまで培った呼吸器内科医のスキルを活かしたいという思いも強く、急性期病院に戻った。いくつかの職場を経験した後、千船病院に赴任して緩和ケアチームに加わったのは、「急性期医療の中で緩和治療に関わるほうがスキルを活かせる」と考えた結果だった。
「これまで多くの病院で緩和ケアを経験してきましたが、千船病院の緩和ケアチームは医師主導型ではなく看護師中心で温かく意見も出しやすい雰囲気です。医師である私がチームに貢献できることがあるとしたら、苦痛や痛みの原因を診断して、薬剤や処置などの医療的な提案をすることでしょう」
実際、竹嶋の加入以降、千船病院の緩和ケアはレベルアップしている。以前はモルヒネを静脈注射のみで点滴していた。静脈注射にも利点はあるが、針が抜けると点滴が止まり、再注射が必要になる。それに対して、終末期の緩和ケアでは患者の負担が少ない皮下注射が一般的だ。竹嶋が皮下注射の利点を説明し、状況に応じて使い分けるようになった。
もちろん現状に満足しているわけではない。急性期と緩和ケア病棟の両方を経験しているがゆえに、目指す理想は高い。
「誰でも緩和治療ができるようマニュアル化して、底上げを図りたいです。緩和治療は、緩和ケア病棟だけのものではありません。急性期病院にこそ緩和治療に興味を持ってくれる医師が増えればいいなと考えています」
冒頭、私は緩和ケアチームの面々は和気藹々とケアについて話し合っていたと書いた。しかし、それぞれのキャリアを振り返ると、最初はむしろ後悔や戸惑い、迷いの連続だったことがわかる。それらの苦悩を乗り越えた末の笑顔なのかと思った。
ところが岩本は、それをやんわりと否定する。
「今も毎日、あれで良かったんかな、もっと別の声かけがあったんじゃないかな、と悩んでます。緩和ケアに正解はないから、チームのみんなや病棟の看護師たちも、永遠に悩み続けると思います。ただ、悩み抜いて出した答えはぜんぶ正解でいいと思えるようになってきた。仲間にもそう伝えてます」
※本稿は、千船病院広報誌『虹くじら』2023春号の特集記事を再編集したものです。
●村上 敬(むらかみ・けい)
東京外国語大学卒業後、ビジネス誌を中心に、経営論、自己啓発、法律問題など、幅広い分野で取材・執筆活動を展開。スタートアップから日本を代表する大企業まで、経営者インタビューは年間50本を超える
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