あなたがもし亡くなるとしたら、自分のスマホをどのように扱って欲しいですか?

 

故人のスマホの取り扱いについて、考察してみたいと思います。

 

 

さて、私の主人がガンと診断され、余命3ヵ月と宣告を受けてからというもの、みるみるうちに、彼の体重は減っていきました。

少しふっくらしていたはずの主人ですが、骨と皮が痛々しい程でした。

 

他界するまでの最後の2ヵ月は、気力体力の落ちていた主人が、ずっしりした重さのスマホを手にして、操作することはほぼありませんでした。

入院していた緩和ケア病棟の病室のサイドテーブルに、ずっとスマホは所在無げに置かれていました。

 

主人がいくらスマホを手にしなくとも、

いくら意識が薄れようとも、

彼が生きている間は、呼吸をしている間は、このスマホは彼のものと、私は捉えていました。

 

だから私は、彼のスマホを勝手に触り、開くことは絶対にありませんでした。

それをしてしまったら、彼への冒涜のような気がしましたし、そんなデリカシーのないことをしてしまったら、もう死んだも同然というような気がしたからです。

 

彼はまだ生きている。

ここに存在している。

だから、そんなことをしては決していけないのだと、自然とそう思っていました。

だから、彼が生きている間、彼のスマホに私が触ることは一度もなかったのです。

 

 

ところがある日、私が病室を訪れた際、主人の親族が先に来ていて、さも当たり前かのように、主人のスマホを開いて、保存されていた写真を見て、話していました。

 

その様に、私は大層驚きました。

 

その時点で、ほぼ意識のなかった主人が促したとは考えにくく、恐らく親族の自己判断で、そのようにしていたのだと思われます。

もしかしたら、良かれと思って、思い出話に花を咲かせようと思ったのかもしれません。

 

それでも、この行為は果たしてどうなのかと。

 

何が良くて、何が悪いのか。

それは誰にも分からないのかもしれません。

 

ただ、

主人はどう思うのか。

故人はどう思うのか。

自分はどうしたいのか。

自分はどうして欲しいのか。

自分はどうしてあげたいのか。

 

 

 

主人が他界してから数日後、私は主人のスマホを初めて手にしました。

ついこの間までこのスマホを使っていた人がいたのに、もうその人がいなくなってしまったのかと思うと、主人が他界した実感がより一層こみ上げてきたのでした。

その命の実感とともに、スマホの重さが、妙にずっしりと感じたものです。

 

 

私は自分の確固たる意志で、主人のスマホをそのように取り扱い、自らの考えに基づいて行動した自分自身としては後悔していません。

しかし、主人が意識のある時点で、主人の意向を聞けていたならば、私は親族に対してもう少し違った、もう一歩踏み込んだ適切な行動を取ることができていたかな…と、後悔にも似たような気持ちをうっすら感じたりします。

 

そんな教訓を踏まえて、私がいつか他界する日が近付いて来た時には、自分の親族に、自分の意思を明確に伝えておきたいと思います。

 

 

あなたがもし亡くなるとしたら、自分のスマホをどのように扱って欲しいですか?

2件のフィードバック

  1. プライベートなものなので、あまり触れられたくないと思うのですが、そう感じない人もいるのかもしれませんね。しかし難しい。難しい話題です。

コメントを残す