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日本人の2人に1人はかかるといわれている「がん」は、いまや身近な病気の一つだといえるだろう。高齢になるほど発症リスクが高いと思われがちだが、近年、女性のがんの若年化が進み、20代、30代のがん患者の8割を女性が占めているという。なかでも乳がん(*1)や子宮がん(*2)はよく知られているが、卵巣がん(*3)は年間約1万3000人がかかっており(2019年国立がん研究センターがん情報サービス 「がん統計」による*4)、その割合は決して少なくはない。しかも、ほかの女性のがんと比較して死亡率が高いことにも注目したい。

その理由は、初期の段階で自覚症状がほとんどないということにある。卵巣がんは「沈黙のがん」ともいわれ、気づいたときには進行していることも多い。告知を受けた多くの女性が、「まさか私が?」と驚くそうだ。自分が卵巣がんだとわかったとき、まずどうしたらいいのだろう? 現在、確実な検診法がないという卵巣がんにおいて、重要なのは、早期発見と早期治療だ。そして、正しい知識を知っておくことが、不安を大きくしないことにつながる。

今回話を聞いたのは、2020年に卵巣がんが発覚してから治療を乗り越えてきたフードコーディネーターの長藤由理花。自身の経験から、がんによる身体や環境の変化、パートナーや家族との関係、仕事、結婚…あらためて考えた人生の選択について語ってもらった。

リアルな経験談から学べることがたくさんあるはず。まさかのときに備えて、普段なかなか意識することのない自分の卵巣の状態にも目を向けてみてほしい。

これまで婦人科系トラブルはゼロ。突然の診断に、涙一つ出なかった

―自覚症状が乏しく早期発見が難しいという卵巣がんですが、長藤さんが婦人科を受診したきっかけは何だったのでしょうか? 何か初期症状のようなものがありましたか?

長藤:それこそ自覚症状は一切なかったんです。それまで婦人科系のトラブルはなく、生理周期も乱れたことがありません。会社の健康診断と婦人科検診も毎年受けていて、結果はいつもA判定でした。

それがあるとき、いつも使用しているピルが切れてしまったため、仕事帰りに立ち寄れそうな婦人科のクリニックを探して受診したところ、「右側の卵巣が腫れている」と言われたんです。「少し腫れが大きいから念のため再検査を」と、大きな病院を紹介されました。ただ、ちょうど年末だったこともあり、「年明けに行けばいいか」と、そのときは事態を重く受け止めてはいなかったんです。

―大きな病院ではどんな検査をしたのでしょうか?

長藤:年明けからしばらくして、大学病院にかかりました。最初の内診で先生の顔が曇り、その後はCTや MRIなど(*5)、いろんな検査を受けて、もうヘトヘト。さすがにこれは何かまずいことになったんだと感じました(笑)。

―卵巣がんと診断されたときは、どのような心境でしたか?

長藤:「親御さんを呼べますか?」と言われ、母と一緒に検査結果を聞きました。先生からはじめに伝えられたのは、「残念ながら卵巣がんの可能性が高いです」という言葉。がんというと、「余命宣告」というようなイメージがあったので、思わず「ステージはどれくらいですか?」と聞いたのですが、開腹手術で卵巣腫瘍を摘出して病理検査をしなければ、そもそも悪性かどうかも明確には判断できないと言われました。

ただ、検査結果を見ると、がんの存在を示唆する腫瘍マーカーの一つである「AFP」(*6)の数字が、14万ng/mlもある。通常、健康な人であれば、10ng/ml以下だと聞いて、愕然としました。我が家はがん家系ではなかったので、どうして? という気持ちと、これからどうしようという漠然とした不安もありましたが、そのときはまだドラマを見ているみたいな気分で、正直、悲しいというより驚きで涙も出ませんでした。

―セカンドオピニオンは受診されなかったのですか? 

長藤:はい。私の卵巣はそのとき10cmくらいに腫れていて、これがいつねじれたり(卵巣腫瘍茎捻転)破裂したりするかわからない。そのため、できるだけ早く手術する必要がありました。また、担当の先生の説明が丁寧でとてもわかりやすく、信頼できると感じたので、ほかの病院は検討しませんでした。

思わず出た一言は、「妊娠は難しいですか?」。はじめて考えた、結婚・出産が当たり前じゃない人生

―卵巣をとることや抗がん剤の治療について、不安や恐怖もあったと思います。治療について、長藤さんがもっとも大切にされたことはどんなことでしょうか?

長藤:「卵巣を取る」と聞いて、とっさに出てきたのは、「妊娠するのは難しいですか?」という一言でした。これは自分でも意外だったんです。それまでは、いつかそのうち結婚して、子どもができて……という人生が当たり前だと思っていたけれど、自分がその当たり前をどれだけ失いたくなかったのかを実感しました。それで先生には、できる限り妊娠の可能性を残す方向で治療をお願いしました。

―医師からはどのような説明がありましたか?

長藤:私の場合、2つある卵巣のうち、右側の1つだけを摘出するので、残った1つの機能で妊娠できる可能性は十分にあるということでした。たしかに卵子の数は1つ分に減るけれど、卵子の質が良ければ妊娠の確率にも問題はないと。そうはいっても、卵巣が片方なくなるのは事実だし、その後の治療や薬によってどんな影響が残るかわからない。やはり、楽観的にはなれませんでした。

さらに怖かったのが、いざ開腹してみたら右側だけでなく、左側の卵巣にもがんが見つかる可能性があるということ。その場合は、両方の卵巣を切除しなければならないので、私が麻酔で寝ている間に妊娠の可能性がゼロになってしまうかもしれない。手術前日は一睡もできませんでした。

麻酔から覚めてまだ朦朧としながらも真っ先に「片方残せましたか?」と、先生に尋ねたのを覚えています。「大丈夫、残せましたよ」と聞いたときには、安堵で涙があふれました。幸い、ほかの場所に転移は見つからず、右側の卵巣と卵管の一部のみを切除し、手術を終えることができました。

脱毛、吐き気、瞼も開けられないくらい重い体…つらい抗がん剤治療の日々

―手術の結果、卵巣がんであることが確定した長藤さんですが、その後はどのような治療を受けられたのでしょうか?

長藤:手術後の病理検査の結果、「卵黄嚢腫瘍」だと診断されました。卵巣がんの中でも比較的まれな疾患で、進行が早く、速やかな治療が重要になる一方、抗がん剤がよく効くがんだと説明を受けました(*7)。私の場合、すでに元凶である卵巣は切除したものの、細かいがん細胞が残っている可能性があるので、再発を予防するために抗がん剤治療をすることになりました。

治療の進め方としては、まず1週間の入院で抗がん剤を点滴投与し、一度退院して、3週間の休薬期間を設けます。これを3クール行なうことで寛解するだろうということでした。

―抗がん剤治療はどのようなものでしたか?

長藤:本当につらかったですね。1クール目はとくに目立つ副作用は起こらなかったのですが、2クール目に入ってすぐ、一気に髪の毛が抜けたんです。そのショックから間もなく、今度は味覚がなくなり、ひどい吐き気にも見舞われました。身体は鉛のように重くなり、瞼を開けるのも、呼吸するのもやっと。一日中吐き続けながら、ただ拳を握り締めて時間が過ぎるのを待つしかありませんでした。

当初、3か月で抗がん剤治療を終える予定だったのですが、私は、2クール目でかなり体力が落ちてしまったので、次のクールに入るまで少し期間を空けることになりました。そのため、当初予定していたより治療期間が1ヶ月伸び、4か月半かかりましたが、先生から「寛解です」と告げられたときは、本当にうれしかったです。

「いまでよかった。一緒にいられるから」。つらい治療を支えてくれた彼の存在

―がんの告知は、当事者だけでなく、身近な人にも大きな影響を与えるかと思います。病気のことを、当時のパートナーにはどのように伝えたのでしょうか? 

長藤:じつは、彼とつき合い始めて2週間でがんの診断があったんです。当時、私は27歳で、彼が32歳。年齢的に結婚を視野に入れていたこともあり、この後治療がどれだけ続くかもわからない、妊娠だってできないかもしれないと思うと、一緒にいてもらうのが申し訳なくて…。私から別れを切り出しました。

ところが、彼の第一声は、「いまでよかった。俺が一緒にいてあげられる」でした。その言葉を聞いて、我慢していた涙がドバーッとあふれてしまいました。きっと私が彼の立場だったら、そんなこと言えないなと思いましたね。

―抗がん剤治療中も、やはり彼が支えてくれたのでしょうか?

長藤:その頃、私は、妊娠が難しくなるかもしれないとか、髪の毛がなくなるとか、毎日わんわん泣いていたんですけど、そういう彼だったので、いつも「大丈夫、大丈夫」と、言って励ましてくれました。入院前には、「今後、病院で会うだろうから」と、つき合って間もないのに実家に挨拶もしてくれて、「何か困ったことがあったらぼくが力になるので連絡してください」と言ってくれました。

実際、入院して抗がん剤治療が始まってからも、仕事の合間にすきがあれば面会に来てくれましたし、コロナ禍で面会が難しくなってからも、毎日テレビ電話をしてくれました。闘病中、私の心の支えになっていたことの一つに、彼との「やりたいことリスト」がありました。「一緒に家でホットケーキを焼く」とか「お寿司食べにいく」とか、本当に些細なことをお互いLINEでメモしあって、寛解したら一個一個叶えていこうと励みにしていました。

―抗がん剤治療中の姿をつき合ったばかりの彼に見せるのは、長藤さんもつらかったのではないでしょうか。

長藤:ちょうど2クール目に入ったころ、新型コロナウイルス感染症が拡大し始め、病院では面会が一切禁止になりました。でも、日に日にボロボロになっていく自分の姿を彼に見せたくなかったので、この状況は私にとって救いでもありました。きっと、髪の毛が抜けて、寝たきりになった私の姿を見ても、彼は「大丈夫、大丈夫」と言ってくれたと思いますが、私は、ちゃんとウィッグをかぶって、笑顔でいられる状態で彼に会いたかったんです。

そのぶん、看護師さんや医療従事者の方たちには本当に助けられましたね。当時、病床確保や緊急対応に走り回るなかで、一晩中背中をさすり続けてもらい、どれだけ苦しさが紛れたか。本当に感謝しています。

子どもがいない人生もきっと素敵。自分の人生の新たな選択肢に気づくことができた

―闘病中支えてくれた彼とは、関係性も深まったと思います。将来のことも考えましたか?

長藤:私が一番気にかかっていたのが、将来妊娠できるかどうかということでした。(*8)手術では無事に片方の卵巣を残すことができましたが、抗がん剤治療でどのような影響があるかわからない。そこで、寛解から1か月後の定期検診で妊よう性(妊娠する力)を調べてもらったところ、卵子の数がかなり減っており、年齢で言うと50代後半くらいの数になっているということがわかりました。やはりこの数字を前にするとショックは大きかったですね。

ちょうどその頃、SNSでは友だちの結婚や妊娠の報告が続いていて、それを素直に喜べない自分がいたり、電車のなかでマタニティマークが目についてしまったり、その場で泣いてしまったこともありました。

―彼は、長藤さんの状況をどのように受け止めたのでしょう?

長藤:きっと彼は子どもを欲しがるだろうし、はじめは伝えるべきかどうか悩みました。でも、思い切って伝えて、二人の将来に向き合いたい気持ちもありました。プロポーズされたのは打ち明けてから2か月後です。

彼に打ち明けることができたのは、子どもを持たない人生も素敵なんじゃないかと受け入れることができたタイミングだったということもありました。そのうえで、彼は子どもを諦めた、のではなく、ただ私を受け入れてくれたんだと思います。

―でもじつは、そのときすでに長藤さんのお腹のなかに赤ちゃんがいたんですよね。あきらめていたなかでの妊娠は、とても嬉しいものだったのではないでしょうか。

長藤:妊娠は、本当に予想もしないことでしたし、感謝しかありません。検査結果を聞いた後、しばらくはまわりを妬んだり、落ち込んだりしていましたが、世の中には私と同じような境遇で子どもができない人もいれば、不妊で悩んでいる女性もたくさんいます。みんな笑顔で働いて生活しているけれど、何気ない「子どもはまだ?」というような一言に、きっと心が傷つくことだってあるはず。そんなことに気づけたのは、病気の経験があったからです。

私はたまたま妊娠することができたので、美談のようにとらえられてしまいがちですが、女性の人生として、これが正解だとはまったく思っていません。もしも多くの女性が同じような局面に立ったとき、「子どもを持つことが絶対ではないのだ」と思える社会になってほしいです。

1年半のウィッグ生活はお気に入りの髪型で。SNSをきっかけに知ったファッション用ウィッグブランド

―抗がん剤による治療中、髪の毛が抜けるなどの容姿の変化は女性としてつらいことだったかと思います。長藤さんはどのように受け止めていたのでしょうか?

長藤:治療が始まる前は、見た目の変化についてすごく気にしていました。病院からは、医療用ウィッグの案内をいただいたのですが、1つ20〜30万円と値段がとても高く、髪型もかわいいと思えない……。ネットで調べても、ネガティブな情報ばかり目についてしまい、ずっと泣いていました。

そんなとき、Instagramで見つけたのが、「リネアストリア」というファッションウィッグのブランドです。とても自然でおしゃれな髪型ばかりで、値段も1つ3,000円くらいと手頃な価格帯のものが多くて。AYA世代(※)のがん患者の方たちが愛用している姿がとてもかわいく、ここならと思い、入院前に店舗へ行きました。初めてのウィッグに不安でいっぱいの私を、スタッフの方たちはあたたかく迎え入れてくださり、素敵な美容院のような店内でウィッグをいろいろつけさせてもらって、久しぶりに明るい気持ちになりました。

※AYA(アヤ)世代……Adolescent&Young Adult(思春期・若年成人)の頭文字をとった言葉で、15歳から39歳の年代を指す。

―ウィッグ生活はどれくらい続けられたのでしょうか?

長藤:地毛が伸びるまでの間、1年半くらいはウィッグで生活しました。じつは、その間すごく楽しかったんです(笑)。私は地毛が癖毛で硬いのが悩みだったのですが、ウィッグならサラサラつやつやの髪の毛でいられるし、憧れだったふわふわの巻き髪も経験できました。前向きに生活できたのは、このウィッグの存在がとても大きかったと感じます。

入院前は見た目が変わってしまうことを気にしていたけれど、助けていただいた命があり、いろんな人に支えられて元気になって、「髪の毛くらいなんでもない」と思えるようにもなりました。

本当にやりたいことで恩返しを。背中を押され、踏み出したフードコーディネーターの道

―現在、フードコーディネーターとして活躍されている長藤さんですが、当時は営業職に就いていたそうですね。がんの診断を受けて会社にはどのような連絡をしたのでしょうか?

長藤:診断が出てすぐに会社の上司に連絡を入れました。その頃、お客さんを100人ほど担当していたので、入院までのあいだに引き継ぎしなければと、かなり焦っていました。さらに、私は契約社員だったので、半年近く治療に専念するとなると、おそらく更新は難しい。退職するしかないと思い込んでいました。

ところが、上司は「何言ってんの! 席は残しておくから」と言ってくれたんです。私が担当していたお客さんも全部彼が引き取ってくれ、何も心配しなくていいと、治療に送り出してくれて。上司が私の分も頑張ってくれていると思うと、一刻も早く仕事に戻りたくて、退院後1週間で復帰しました。

―病気のことがありながら、収入や生活の面でも不安を抱えるのは、つらいことだと思います。長藤さんは、がん患者の方にとってどのような就労環境が望ましいと思いますか?

長藤:上司に伝えるまでは、契約も切れるだろうし、かといってこんな身体では転職活動もできないし……、と、この先を考えとても不安になっていました。だから、「席は残しておくから」と言ってくれた上司には感謝してもしきれません。病気になっても戻れる場所があるという安心感が、あるとないとでは、精神状態がまったく違うと思います。

最近はテレワークも広がり、働き方も多様化していますが、がん患者の方たちが体調と向き合いながら働けるような環境や仕組み、受け皿になってくれるような制度が、多くの会社にできるといいなと思います。

―長藤さんは、これまで副業で続けていたフードコーディネーターの仕事に専念することを決断されました。好きなことをしようと思えたのは、やはりがんがきっかけだったのでしょうか?

長藤:いまの会社を辞める決断をしたのは、妊よう性の検査結果をもらった頃です。人生のいろんな選択肢を考えたときに、子どもを持たない人生を選ぶなら、自分のやりたいことをとことん追求してもいいかもしれないと思ったんです。ただ、席を残して待っていてくれた上司や会社には、申し訳ない気持ちでいっぱいで、なかなか気持ちを伝えられずにいました。

そんな私の様子を察したのか、ある日上司がご飯に誘ってくれて。「自分が席を残しておいたせいで、人生の選択肢を狭めてしまったのでは」と言われたんです。そして、大きな経験をしたのだから、次に進んでほしいと背中を押してくれました。いま、「好きなことして活躍することが、恩返しになる」という上司の言葉を胸に、本当に好きな仕事と向き合わせていただくことができています。

「すべてなくなってしまう」と絶望したあの日から3年。いま、「何ひとつ失っていない」と思える

―治療を終え、いま振り返ると卵巣がん治療の経験は長藤さんにとってどのようなものでしたか?

長藤:「病気になってよかった」と思うことは一個もありません。ただ、病気になる前と後とでは、いまのほうが圧倒的に幸せだと感じます。

一時期は、卵巣も髪の毛も無くなって、肌も真っ黒になって、結婚できる可能性も子どもを産む可能性も、仕事も夢も、いろんなものをなくしたと思っていました。それが3年経って、髪の毛もまつ毛も戻ってきたし、旦那さんも子どももいるし、なくしたものは何もない。それは、命があったからなんですよね。この先、絶望するようなことはたくさんあるかもしれないけど、どれだけ絶望したって、「命さえあれば絶対また取り返すことができる」という自信がついたように思います。

それから、私の場合は、数字やデータを覆すような奇跡が起こりえるのだということを子どもが教えてくれました。生きていれば、自分の力じゃどうしようもできないことはいっぱいあるけれど、「奇跡は起こるかもしれない」と思えるのは希望です。まわりの人たちのおかげで、私は自信と希望を手に入れることができました。だからいま、とても幸せなんだと思います。

―最後に長藤さんから、女性がより健康で安心に生きていくためのアドバイスがあればお願いします。

長藤:卵巣がんに気がつくのは、やはりとても難しいことだと思うんです。私の場合、毎年の健康診断に加え、婦人科検診も受けていましたが、病気の進行に気づくことができませんでした。そこで自戒も込めて皆さんにお勧めしたいのは、とくに症状がなくても、定期的に婦人科に通うようにすること。また、お腹の張りや腰痛、腹痛、便秘や頻尿など、いつもとは違うなということがあれば、一度婦人科で診てもらうと良いと思います(*9)。

私は、寛解後、4か月に1回定期検診を受けていますが、やはり毎回ドキドキしますし、何もないことにホッとします。以前よりちょっとした自分の身体の変化にも敏感になりました。かかりつけ医があると、些細なこともすぐに相談できますし、やはり安心できます。これまでなかなか婦人科検診(*10)を受ける機会がなかったという方は、ぜひこれから習慣にしていただくといいのかなと思います。

サービス情報
武田薬品工業株式会社

卵巣がん患者さんのお困りごとの解決と、患者さんと医療関係者のよりよいコミュニケーションを支援する目的で、初発の方向けに『わたしとはなす:卵巣がんと診断されたときに読む本』を作成しました。​病期についての基本知識や初発治療の流れ、遺伝子検査に関する情報を掲載しています。

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Women’s Health Action×CINRAがお届けする、女性の心とからだの健康を考えるウェルネス&カルチャープラットフォームです。月経・妊活など女性特有のお悩みやヘルスケアに役立つ記事、専門家からのメッセージ、イベント情報などをお知らせします。

プロフィール
長藤由理花

1992年生まれ。営業職をしていた2020年1月、卵巣がん(卵黄嚢腫瘍)に罹患。右卵巣の摘出手術、抗がん剤治療によるがん治療を受ける。その後は、会社員時代から副業で行っていたフードコーディネーターの仕事に専念。国内の生産者とともに、レシピ開発や販売方法を提案するなど、幅広く活動している。

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