[ad_1]

 日本医学会会長を長年務め、自治医科大学名誉学長、東京大学名誉教授の高久史麿氏が3月24日、死去した(『高久史麿氏が91歳で死去、前日本医学会会長』を参照)。91歳だった。そのご子息である高久智生氏は現在、順天堂大学血液学講座の准教授として、史麿氏と同じ血液内科の道を歩む。生前、『彼(智生氏)は私と同じ血液学を選んだ。昔のことですが、彼は「長嶋一茂の心境だ」って言っていました。なぜ血液を選んだのか、よく分からんですな(笑)。何も相談を受けず、彼が自分で選んだ』と語っていた史麿氏(『医師の長男、「長嶋一茂の心境」』を参照)。智生氏に、史麿氏の最期や思い出などをお聞きした(2022年4月22日にインタビュー。全3回の連載)。


――史麿先生は、地域医療振興協会会長、日本医療安全調査機構理事長を務めるなど、最後まで現役でした。

 確かにほとんど病気知らずの父で、身内である私から見ると年々老いを感じる部分もあったのですが、精力的に仕事を続けており、特に歩けなくなることと、食べられなくなることを大変気にしていました。そして、50歳から始めたテニスは晩年まで続けており、80歳頃まで自分で運転して練馬の自宅から目白のテニスコートに通っていたのですが、「運転は危ない」と私が止めると、今度はバスで通い始めたのです。私はタクシーを使うよう勧めたのですが、聞き入れてもらえませんでした。

 そんな父も数年前に、左目が突然、加齢黄斑変性になってしまいました。それでもほとんど右目で物を見ることで以前と同様に仕事をこなしていました。

 しかし約2年前、大変稀だと眼科の先生にお伺いしたのですが、反対側の右目も加齢黄斑変性になってしまいました。それからです、次から次へとさまざまな病気を抱え、体調を崩していきました。脳梗塞は2回発症しましたがいずれも1週間程度で退院し、後遺症も幸い残らなかったのですが、肛門管がんという非常に珍しいタイプの扁平上皮がんに罹患。以前に放射線治療を受けていたため放射線療法の適応にはならず、やむを得ず手術を選択したものの、その後も感染による発熱のため、入退院を繰り返すようになってしまったのです。

 以前はインターネットで主要な英文誌を検索し、常に最新の情報を入手していた父ですが、2回目の加齢黄斑変性症を発症以降は物を読むことが困難になり、それに伴い仕事も制限されるようになっていきました。我々もなんとかしようと、拡大読書器の存在を知り、実際に点字図書館に父を連れて行って選んだのですが到着が遅れあまり役には立ちませんでした。

 2021年3月から私と妻は、父を心配し同居を始めていました。入退院を繰り返す中で、特に2021年11月からは入院期間が長くなり、体力も低下。何とか家で看取りたいと、退院したのが3月12日。亡くなったのが3月24日です。

 最後の2週間は父との本当に濃密な時間を過ごすことができました。私が子供の頃は多忙だったため、父と一緒にどこかに遊びに行ったりした記憶はほとんどありません。ですので、父の手を握ったり、さすっていたことも私にとりまして初めての経験でしたし、自宅では無口な父でしたので、あれほど話した記憶もありません。

 父は、亡くなる直前まで頭はしっかりしていました。私の専門は血液内科で、特に慢性骨髄性白血病に興味を持って臨床や基礎研究に取り組んでいるのですが、父を励まそうと、最近面白い研究成果が出ていることを数カ月前に話したところ、「いつ論文書けるんだ?」と逆に発破をかけられ、最後までそれを楽しみにしていました。そのことを覚えていたのでしょう、亡くなる数日前ですが、力がなくなってうまく発音ができなくなっても、

 「あの研究の結果、どうなった?」

と声をかけてくれたのです。

――自宅でお看取りされたとのことですが、史麿先生はどんな最期を迎えたいと言われていたのですか。ACP(Advance Care Planning)が普及しつつある今、ご家族で話し合ったりされていたのでしょうか。

 治療方針も含めて、父は全て私に任せてくれていました。ですので、私にとっては専門外のことばかりでしたが、地域医療振興協会練馬光が丘病院の吉田卓義先生をはじめ、さまざまな疾患の主治医の先生とまず私が相談し、入院や手術が必要になればその理由を父に伝えていたのですが、いつも「分かった、お前が言うなら」と応じてくれました。

 ただ、私は血液内科医として長年、多くの患者を診療し看取ってきましたが、家族の病気と向き合うとなるととても難しいことなのだと感じました。「たとえどんな状況でも生きていてほしい」という気持ちがどうしても働いてしまいます。例えば点滴一つにしても、実際には苦しい時間を延ばすだけであると頭では分かっていても、「もう少し栄養のあるものにした方がいいんじゃないか」など、医学的に冷静な判断ができなくなってしまいます。

 どんなに頑張っても高齢ですから、いったん体力が落ちると回復は容易ではありません。そんな状況の中、老いや病気と闘うという父の気持ちをくじかないようにすることと、ふらつきながらも自分で歩こうとする父の安全を守ることの両立にいつも苦労していました。しかし、さまざまな病気にさいなまれながらも諦めず、最後の最後まで病気と闘っていた父の姿を思い出す時に真っ先に思い浮かぶのは「ガッツがある」という言葉です。

 最後に入院したのは、今年の2月です。いったん退院したものの、食事を喉に詰まらせて再び入院。CTを撮影したら、がんは大きくなっていました。

 おそらくあまり残りの時間がないと考え、「父が望んでいるから家に戻してあげたいんだけど」と妻に相談したら、「私も戻してあげたい」と言ってくれましたので、急いで父を向かい入れる準備をし、少し熱が落ち着いた3月12日に退院したのです。

 昨年のうちに、このような状況を見越してCVポートは作っていましたから、アセトアミノフェンを点滴したり、経静脈的な緩和ケアもやりました。最後の2週間、父は水分の経口摂取はほぼ無理な状態でしたが、喉が渇くという訴えが頻回でした。そこで、訪問診療の先生にいただいたアイデアを基に生み出した対処法は、喘息の息子用にと自宅にあったネブライザーを活用することでした。父は甘いものが大好きだったのでフルーツジュースをネブライザーで吸わせたのです。フルーツの良い香りで喉を潤すことができ、父も大変喜んでいたのを思い出します。

 最後の父は思い通りのことはほとんどできず、身体一つでさえ動かすのができませんでした。今思い返しても最後の2週間は本当につらい状況だったと思います。でも8人の孫にも会え、苦しまず静かに旅立っていきました。

――医師のご家族であっても理路整然と決められるわけではなく、いろいろ悩まれた。

 おっしゃる通りです。特にこの2年間はいつも父のことが心配で、心が休まる日はありませんでした。

 私の妻は看護師で消化器内科での経験があり、父のみならず母の看護と介護の主体は妻でした。父と同居した1年間のうち、数カ月は入院しておりましたが、そのほか自宅にいるときはたくさんの方々のお力をお借りしながらも、介護は妻が行っておりました。実際に、両親ともに妻を大変頼りにし、心から信頼していたと思います。父の介護は妻なくしては成り立ちませんでしたし、実の親に接するように献身的に頑張ってくれた妻には、2人の姉も含めて皆が心から感謝しています。

 医師として、患者の家族として、熱を出しては入退院を繰り返す父をどうするべきか、何が父にとって幸せなのか、妻と一緒に悩みに悩んだ2年間でした。でも、それと同時に父と私がいかにたくさんの方々に支えられ助けられていたかを、改めて気づくことができた2年間でもありました。主治医の先生、何人もの訪問看護師やヘルパーの方々、地域医療振興協会や病院を含めてたくさんの素晴らしい方々とのご縁をいただくことができました。皆さん本当に、仕事という枠を超えて父に接してくださったと思います。感謝してもしきれません。おかげさまで、私も妻も悔いの残らない介護ができたと思います。

――今年5月14日には、史麿先生が創設準備の段階から関わられた自治医科大学が50周年を迎えます。それを見届けたかったのでは。

 父は自治医科大学の50周年の記念式典を本当に大切に思い、心から楽しみにしていました。その他にも今年10月に(史麿氏が会長を務めていた地域医療振興協会が運営する)練馬光が丘病院の新病院がオープンする日も心待ちにしていました。私は週1回、光が丘病院に非常勤として勤務させていただいているのですが、父が亡くなった3月24日木曜日に出勤し、「新病院開院まであと200日」であったことは今でも鮮明に覚えています。

 きっと、苦痛もなく身軽になった父は姿は見えずとも式典に喜んで参加し、新病院を見に来ることでしょう。

【高久智生・順大血液内科准教授に聞く】(2022年4月22日にインタビュー)

Vol.1 91歳まで全力で生き抜いた父の最期

Vol.2 一度も「医師になれ」と言わなかった父

Vol.3 父と同じ血液内科を専門にした理由とは?

[ad_2]

Source link

コメントを残す