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[東京 29日] – 新型コロナウィルスの感染が拡大し、医療逼迫が叫ばれている現在、日本人が一番苦手とする治療の「優先順位」を考えなくてはならない時期が到来していると考えられる、と京都市伏見区の社会福祉法人「同和園」付属診療所・前所長の中村仁一医師は言う。
しかし、今の日本人は医療を過大評価し、「老・病・死」に向き合う覚悟を失っており、医療との関わり方を見直すことが重要になるという。
同氏の見解は以下の通り。
新型コロナウィルスには治療法がないが、それにも関わらず8割の人は治癒している。これは本人に備わった自己治癒力のおかげだ。
自然治癒力が衰えている高齢者や持病のある人などの場合、手伝ってもらえば助かる人と、いくら手伝ってもらっても助からない人に分かれる。
重症者に人工呼吸器やエクモ(体外式膜型人工肺)が装着されるが、医療機器が感染症を治すのではなく、脇役である医療機器が時間を稼ぐ間に、主役である本人の「治す力」に期待するものだ。
医療にはやってみないとどうなるかわからないという「不確実性」が確かにある。
しかし、超高齢の末期がんの患者にエクモが使用されているなどという話を耳にすると、医療介入すれば助かる可能性の高い人から医療介入をすべきではないかと思う。
限られた医療資源のなかで、持病のある人は持病のない人へ、年寄りは現役世代へというふうに順位をつけることだ。
日本集中治療医学会(JSICM)臨床倫理委員会は11月、コロナが急激に流行した際の医療資源の効率的配分に関する提言を公開した。
提言は「コロナの爆発的流行時においては、医療資源の制約に基づき、無益性も考慮して、よりよい結果(健康状態の回復)が得られると期待される患者に優先的に資源を振り分け、人工呼吸器などの生命維持装置を用いた治療の差し替え・中止が発生する状況も想定する必要がある」とした。
そのうえで、1)治療の差し替え・中止の判断は医療・ケアチームの議論を経て行われること、2)患者に判断能力がある場合には、患者の意思に基づいて医療を進め、判断能力がない場合は、家族らの合意に基づく代諾に基づいて医療を進めること、3)治療の差し替え・中止の場合にも、緩和ケアを含めた適切な医療・看護が提供されることなどの指針を示した。
しかし、家族に決めさせるというのは「酷な話」であり、どういう状態になったら、どこまでの医療を希望するかを前もって意思表示をし、家族と話し合って折り合いをつける習慣を普及させる必要がある。それが家族に対する思いやりというものだ。
その方法として、アドヴァンス・ディレクティブと呼ばれる事前指示書がある。これは意識不明や正常な判断能力が失われた場合、誰にどういう医療や介護を望むかを具体的な容態ごとに明記する書式である。
心肺停止や自力で飲食できなくなった場合に自然に任せるか否か、痛みに対して麻薬を使用するかセデーション(終末期鎮静)を行うか、輸血するか、死後に葬儀・告別式を実施するかなどが含まれる。
<医療との関わり方の見直しを>
パンデミックの有無に関わらず、 医療との関わり方を見直すことは重要だ。
わが国は医療保険制度が充実しているため、医療を受けるに際して、あまり金銭的負担のことは考えなくてもよい環境になっている。しかし、本来、患者は自分の経済状況、生き方、生活背景、年齢などを考えた「最善」の範囲内で、医療者に対して、プロとしての「最善」を尽くすことを求めるというのが筋である。
特に、高齢者の医療との関わり方は問題含みだ。
今の日本人は医療を過大評価し、医療にすがれば「老い」もなんとかなると考え、老いと、その先にある死を受容できなくなっている。しかし、生まれたものが年月を経て、身体の諸機能が衰えて死を迎えるのは自然な出来事であり、異様なことでも不自然なことでもなく、ごく自然に受け止めていく必要がある。
所詮、医療は死に対して無力だが、患者側の家族から、死が目前に迫っている状態でも、できることは目一杯してくれという要望が出されたり、「死は医療の敗北」と考える医療者側に、死の当日まで血液検査をされたという家族の嘆きが聞かれることもある。
治療には回復の見込みと生活の質(QOL)の向上という目標があるべきで、これらがないにも関わらず「死」をただ先送りするだけに医療を利用するのは、資源の無駄遣いである。これを続けていけば、患者本人を苦しめるだけでなく、世界に冠たる現在の医療保険制度を若い世代に継承できなくなってしまう。
厚生労働省によると、国民医療費は拡大の一途をたどり、2000年度に30兆円だった医療費は18年度に43兆円を突破。特に延命治療を含む終末期医療では医療費が高額になる傾向がある。
終末期の濃厚医療介入は本人の幸せにつながらない。
我々には、生来、生物として穏やかに死ねる仕組みが備わっているはずなので、医療を使って、穏やかな死を邪魔してはいけない。
高齢者は自然の摂理に任せるという手本を示し、次世代に死は怖くないことを示し、安心させるという役目を果たさなくてはならない。
ただ、どんな死に方をするかは、それまでの生き方、周囲とのかかわり方、医療の利用の仕方が一般的には反映される。
今日は昨日の続きであって、昨日と全く異なる今日はないので、人は生きてきたように死ぬことになる。そこで「死を視野」に入れた普段の「生き方」が大事になる。「今」をしっかり生きることが大切で、点検と修正をくり返しながら、その日まで生ききることが肝心だ。
(聞き手:森佳子)
*中村仁一氏は、京都大学医学部を卒業後、内科医として京都市内の財団法人高雄病院に勤務。院長、理事長を経て、2000年から京都府最大の特別養護老人ホーム「同和園」の付属診療所所長を務め今年9月に退職。主な著書に『大往生したけりゃ医療とかかわるな』(2012)、『大往生したけりゃ医療とかかわるな【介護編】』(2017)がある。
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