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中山:改めて、稲葉先生が国際貢献活動に関わるようになった経緯を教えていただけますか。

稲葉:僕は1979年生まれで、中山先生と同じ外科医をやっていて、大学も長崎大なので存じ上げていました。以前から先生の Twitter をフォローしています(笑)。

中山:光栄です(笑)。僕は1980年生まれで、鹿児島大なので同じ感じを共有しているんでしょうね。

稲葉:2004 年に長崎大を卒業して、マッチングの1期生です。「モルモット世代」と自分たちで言っていましたけど、制度が変わることが全然知らされていなくて、5 年生ごろまで普通にみんなストレート研修だと思っていました。研修医の多くが大学病院に残る時代でしたが、大学病院以外で研修している先輩にちょっと憧れていたこともあり、市中病院でちょっとハードな研修したいなと考えていました。

 出身が岡山県なので、マッチング以前からスーパーローテート制度を取り入れていた倉敷中央病院で初期研修2年間を過ごしました。医学部に入った時は小児科医になりたいと思っていましたが、ポリクリで回る大学病院の小児科は予後が厳しい子供が多くて、ちょっと辛くなってしまいました。次は全身管理ができる医者になろうと、麻酔科医を志望しました。麻酔科は楽しかったですが、患者さんとお話しできないのが物足りなくて、最終的に外科医を目指すことにしました。

 当時の外科なので、手術だけでなく緩和ケア、看取りまでもやっていて、それも良かったです。初期研修中はローテーションで3カ月、外科にいましたが、何もできないので患者さんのところにしょっちゅう顔を出して、それで家族から「先生が担当でおばあちゃんは喜んでいた」みたいなことを言われたりして、それもうれしかったですね。

 後期研修では、岡山県では消化器の症例が多かったのと、当時では珍しかった緩和ケア病棟のある岡山済生会総合病院に行きました。医局に入らないまま5 年間、クラシカルな外科の修練を積みました。

中山氏(左)と稲葉氏

中山:稲葉先生は救急専門医もお持ちですよね。

稲葉:救急には関心もなかったのですが、外科専攻医だった頃に自分の父親がVF(心室細動)になったんですね。病院の事務員だったのですが、胸が苦しいと言って自分の病院を受診してCTを撮ったら胸が真っ白だったということで、その病院の先生から僕に電話かかってきました。「先生の病院に運んでいいか」と聞かれて、それは良いけどサチュレーションはどれくらいですかと聞いたら86%と言われて。

中山:えー。

稲葉:朝、普通に出勤した人がサチュレーション86%はおかしいだろと思って、素人ながらに「心筋梗塞は大丈夫ですかね」と聞いたら、「今から心電図取りますね」と言っているそばから、看護師さんが「先生、心臓が止まってます」と叫んでいるのが聞こえてくる状況でした。

中山:大変な状況ですね。

稲葉:田舎なので救急車呼んでも30、40分かかります。一番近い救命センターまで運んでもらったのですが、1時間半くらいかかりました。その病院にも知っている先生がいて、「PCPS(経皮的心肺補助法)まわして良いですか?」と聞かれて、僕も全然理解できてないままに「何でもいいから回してください」とお願いしたのですが、結局、次の日には亡くなりました。

 当時はリンパ節をいかにきれいに取るかということに命かけるんだと思っていましたが、こういう言い方は外科の先生に失礼かもしれませんが、こんなに簡単に心筋梗塞とかで人は死んでしまうんだなと実感して、救急のことを勉強したいなと思ったのがきっかけですね。

中山:きつい経験されたんですね。

稲葉:今は救急に行って良かったと思っていますし、父親のことも結果的に良い経験になりました。あと、親父が死ぬ時にICUで3時間ぐらい付き添っていたのですが、ナースステーションで看護師さんと麻酔科の先生が楽しそうにお話しされてる笑い声が聞こえてきて。自分自身も勤務中に楽しくなることもあるので分かるんですけど、家族として自分の親父が死にそうになっているところで、これを聞くのは結構辛いなと思って、そこら辺も気をつけるようにはなりましたね。

 外科専門医を取った後は大阪の千里救命救急センターでお世話になりました。救急医が30人ぐらいいて、いわゆる「完結型」と呼ばれる、他科コンサルをあまりせずに自分たちでやるという昔ながらのスタイルでした。その中に外科チームや心臓チームなどがあるのですが、みんなジェネラルにできる必要があります。それまでは心電図、心エコーの経験もあまりなかったですが、そこで救急の後期研修医としてイチからやり直しました。医師8年目で、年下のシニアレジデントに教えてもらいました。外科チームとして、初療室でお腹あけてそのまま手術することも多くて、食道破裂のオペを週に2回やったこともありました。

中山:それはすごい。

稲葉:2年間いて、食道破裂はその2回だけでしたけどね。外科医だと7年目ぐらいまでは必ず上の先生が一緒に入ってくれますが、完結型なので、外科チームでは一つ上の先生が執刀医としては一番上で、2人でたくさん緊急オペもして外科医としてもかなり鍛えられましたね。

 そこで2年間やって、初期研修をさせてもらった岡山済生会総合病院が救急を強化するということで、2013年に岡山に戻りました。救急で働きながら緊急手術をしつつ、指導医としてアッペとかラパコレは若い先生とオペに入るという感じでした。救急外科医として5年働いて、2018 年から今のNGOに移籍しました。

中山:それがピースウィンズジャパン(PWJ)ですね。被災地の医療支援などに関わったのはどのようなきっかけがあったのでしょうか。

稲葉:もともとDMATに興味があって研修には参加していたのですが、初めての派遣は2011年の東日本大震災でした。DMATで岩手県のいわて花巻空港に行ったのですが、何もできなかったという経験があります。自衛隊の飛行機に乗って3月12日にはいわて花巻空港にいたのですが、そこからの移動手段がなかったです。空港にSCU(Staging Care Unit:広域搬送拠点臨時医療施設)ができたのですが、そこに人が運ばれてこないんですね。ご存じの通り、津波による被害がメインだったので、被害に遭われた多くの人は亡くなられた一方で、内陸は被害が少なかったです。

 加えて、情けなかったのは、僕たちも含めて多くが泊まる場所や寝る場所を考えずに来ていたので、300人のDMAT隊員がむしろ空港で難民状態になるといった感じです。僕はもう 3 日目ぐらいには帰ってきてしまいました。まだ若かったこともあって「もっとできたはずなのに」と思って、待つことに耐えられなかったです。

 それと、インターネットは全然使えなかったですが、噂話で原発が爆発したらしいと聞こえてきました。当時は子供が小さかったこともあり、これで日本が終わってしまうのかという恐怖もありました。無力感や勢いだけで飛び出した恥ずかしさもあって、僕の中でトラウマになっていますね。

中山:DMATでそんな経験をされたのですね。その後も災害医療に関わり続けたのでしょうか。

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