[ad_1]

堀ちえみ(撮影/高梨俊浩)

「やっぱり私は歌っているときがいちばん幸せ! 来年のコンサートに向け、家でも毎日トレーニングをしています。一度歌い始めるとついつい止まらなくなってしまうんですよね。“コンサートで2時間ちゃんと通して歌えるかな?”と娘に聞いたら、“何言ってるの、毎日あれだけ歌ってるのに、そこ心配する? それより歌詞を間違えないようにね!”と言われてしまいました(笑)」

 今年デビュー40周年を迎えた堀ちえみ。「デビュー当初から応援してくださっているファンの方々もいて、本当に40年間よくついてきてくださったなと思います」と感慨を込め振り返る。

デビュー40周年の堀ちえみ、アイドルに憧れた少女時代

 芸能界入りのきっかけは、「石野真子さんに憧れて」と、ほほ笑む。地元の大阪・堺のスーパーで催された新曲発表会に偶然居合わせ、それが彼女の人生を大きく変えた。

「真子さんは私が初めて目にした芸能人でした。レコードを買えば握手ができるというので、お母さんからもらったお小遣いで急きょレコードを買って握手会に参加しました。“顔が小さい! 可愛い!”と、もう大感激でした。

 本当はお小遣いで、ドムドムハンバーガーとサーティワンアイスクリームを買うつもりだったけど、そんなことはもうどうでもよくなっちゃった(笑)。“私もああなりたい!”とあのとき思って……。中学2年生の夏休みでした」

 翌年、アイドルの登竜門として知られるホリプロタレントスカウトキャラバンに応募。書類選考、予選と順調に勝ち進み、東京本戦に出場を果たす。

 中野サンプラザで開催された本戦の模様は当時テレビで生中継され、堀が見事グランプリを獲得する姿が全国に放映された。しかしこれが思わぬ騒動を招くことになる。

「放送直後に“学校の先生からお電話です!”とディレクターさんが走ってきて、私はてっきり“よくやったな、おめでとう!”と褒めてもらえると思っていたんです。でも先生は“生放送を見たぞ、何してくれとるんや!”とカンカンで。“どうやって学長に始末書を書いたらええねん!”とすごい剣幕で怒られてしまいました。

 私が通っていたのはエスカレーター式の私立の学校で校則が厳しく、テレビ出演は一切禁止。でも私もまさか受かるとは思っていなかったから、学校に内緒で出ていたんですよね(笑)」

 まさかと思っていたのは当人だけではなかった。両親は芸能界入りに反対していたが、娘がグランプリに輝くとは夢にも思わず、決戦出場を許していた。しかし結果はその“まさか”で、何社ものレコード会社が名乗りを上げ、話はトントン拍子に進んでいく。

「事務所の人を前にして、あろうことかうちの親が“この話はなかったことにしてください”と言ったんです。オーディションの翌日のことでした。先生の騒動といい、親の発言といい、“これからアイドルとして売り出そうとしているのにとんでもない子を合格させちゃったな”と思われたらどうしよう、とずっとハラハラしていましたね」

 とはいえオーディションの模様は全国に放映済み。事務所としてももう後には引き返せない。レコード会社との契約も、デビュー日もすでに決まりつつある。何より当人の意志が固かった。

どうしてもダメなら家出をしてでも……

「私は小さいころから自立心が旺盛で、早く家を出たいという気持ちが強くありました。すごくませていましたね。芸能界に入るチャンスを掴んで、住むところは用意してもらえた。これで私も家を出て自立することができる。もしどうしてもダメだと言うなら家出をしてでも、というくらいの気持ちでいました」

 泣いて芸能界入りを主張する娘と、断固反対する両親。平行線の話し合いが続くなか、助け船を出してくれたのが大好きな祖父だった。

「“誰の人生でもない、ちえみの人生なんだから。一度しかない人生、悔いが残らないよう自分の思う道に進ませてあげよう”と言って、親を説得してくれました。私は大のお祖父ちゃん子で、祖父母に育てられたようなもの。東京に行くときもお祖父ちゃんが洋服をすべて買ってそろえてくれて、無事上京することができました」

 1982年、『潮風の少女』でデビュー。“花の82年組”と呼ばれるアイドル黄金年で、同期デビューには、中森明菜小泉今日子、早見優、松本伊代、石川秀美、シブがき隊らがいた。芸能界でしのぎを削る同年代の若者同士、さぞやライバル心があったのでは─?

「みんな本当に仲が良かったし、過酷なアイドル生活を送っていたから、結束力がすごくありました。同期とはいまだに仲良くしています」

 同期の中でもとりわけ親しくしていたのが早見優。「ちえみちゃんは頑張り屋さんで、昔から何事にも一生懸命でしたね」と、当時の様子を語ってくれた。

「あのころは歌番組の全盛期で、多いときで週6日ちえみちゃんと番組で共演していました。今と違って当時の楽屋は大部屋で、よく待ち時間にお菓子を囲んでおしゃべりをしていましたね。ちえみちゃんは堀越学園の同級生でもありました。でも2人とも忙しくて丸一日学校にいられることはまずなくて、いつも早退ばかり。

 ちえみちゃんはドラマが始まるとなかなか学校に来られなくなって、撮影が大変なんだろうなと思っていました。卒業前に単位がギリギリになってしまったと言って、そのぶん土日に出席したり、レポートを書いて提出したりと、すごく頑張っていたのを覚えています」

 堀の人気を確かなものにしたのが、デビュー2年目に出演したドラマ『スチュワーデス物語』。スチュワーデスの訓練生・松本千秋の成長と教官との淡い恋を描いた物語で、日本航空が全面協力し鳴り物入りで始まった。

「大企業のバックアップのもとにやるからコケるわけにはいかないと言われ、大きなプレッシャーがありました。半年間の放送のため、撮影に費やした期間は8か月間。本当に大変なスケジュールで、今の時代だったらコンプライアンス的に問題になっているかも。

 撮影中に盲腸になっても、スケジュールが立て込んでいるから休めない。医師が“1週間の入院が必要”と言い、事務所は“そこを3日でなんとか”と言って、互いにせめぎ合いをしていましたね(笑)」

現場の中で生まれたあの“名ゼリフ”

 堀が扮するヒロインの千秋は、何をやってもうまくいかない落ちこぼれ。千秋の「ドジでノロマな亀」はドラマを代表する名ゼリフで、当時の流行語にもなった。

「でも実はこのセリフはもともと台本にはなかったもの。あまりにも私の演技が下手で、どんどん内容が変わっていって。現場で私がうまくできずにいたら、“本当におまえはドジでノロマだな!”と言われて、それがそのままセリフになってしまった感じです(笑)。

 でもスチュワーデスのお話だから、本当はあそこまで泥くさくなるはずではなかったと思う。たぶん千秋をほかの人が演じていたら、もっとカッコいいドラマになっていたと思います。だから当時は申し訳ないなという気持ちがすごくありました」

 不器用で、ひたむきで、だからこそ愛らしく親しみやすい。千秋のキャラクターは演じた堀そのもので、等身大のヒロインの成長物語が共感を呼んだ。ドラマは一世を風靡したが堀は、

「第1話をオンエアで見たとき、自分の演技を見るのに耐えられなくて、もう見るのはやめようと決めました」

 彼女が全編通してドラマを見たのはずっと後になってから。

「初めてきちんと見たのはDVD化されたとき。よくできたドラマだなと思いましたね。風間杜夫さん扮する教官がアメとムチで千秋を育て、彼女も最後は教官のもとから巣立っていく。

 そのころ私は子どもを育てていたので、2人の関係は親子のそれにも見えて、この話はある意味、子どもの成長物語だなと感じました。千秋と同世代の方はひとりの女の子がスチュワーデスになるシンデレラストーリーとして楽しめるし、親世代には子どもが育っていく姿にも重なって。だから老若男女どの年齢にも響いたのだと思います」

『スチュワーデス物語』の大ヒットで正真正銘トップアイドルの仲間入りを果たした彼女。しかしその3年後、突然引退を宣言し、一時芸能界を退いている。当時20歳。一体何があったのか。

「私は歌を歌っているときがいちばん幸せで、歌いたいという気持ちが強くありました。でもだんだんレコードのセールスは落ち、後輩も次々入ってくる。アイドルというのはずっと続けられるものではないと気づかされて。

 アイドルとして衰退していく自分を見たくなかったんですね。ドラマの話はたくさんいただいて、このままだと女優業にシフトしていくことになる。でも私の中では女優というのはちょっと違うな、という思いがありました」

 慌てたのは事務所だ。ならば歌留学はどうかと提案された。行き先はニューヨーク、マンションも用意すると、具体策も打診された。

「もういろいろ考えすぎて、急性胃腸炎になってしまって、救急病院に運ばれました。でもそれを拒食症と報道されて」

 記者が大挙し実家に押しかけ、家族にカメラが向けられた。拒食症と書かれたことでメンタルに問題を抱えているといわれ、“娘をそんなにして”と世間から家族に冷たい言葉を投げかけられることもあったという。しかし事務所には“何も答えないように”とクギを刺され、反論することは許されない。

「家族にこんなに迷惑をかけてしまって申し訳ない、いったん芸能界を離れようとそこで決意しました。あまりに忙しすぎて、少し休養しないと身体を壊すのではないかという危うさも感じていました。

 最近は休養宣言をする若い子が増えてきたけど、とてもいいことだと思う。私はもういっぱいいっぱいで、追い詰められてやっと立ち止まることができたから」

芸能界を離れても注目されて

 15歳から5年間ひたすらアイドルとして走り続けた彼女には、リセットする時間が必要だった。その後、2年間の休養期間を経て、芸能界に復帰。事務所も移り、新たなスタートを。しかし──。

「本当は芸能界に戻ってくるつもりはありませんでした」

 と、堀は当時を振り返る。芸能界を離れ、ひとりの女性として普通の生活を送るはずだった。若くして芸能界入りし、経験してこなかったこと、やってみたいことはいろいろあった。だが家の前には芸能レポーターが張りつき、どこでもカメラに追われ、実家にまで押しかけられた。ひとたび街へ出れば視線にさらされ、気の休まる暇がない。

「ずっと芸能界にいたので銀行に行ったことすらなくて、初めてひとりで行けたときは本当にうれしかった。でも“堀ちえみさーん”という窓口からの呼び出しでたちまち周りにバレて、握手攻めにあってしまって。ありがたいことではありましたけど……」

 これでは芸能界にいたときと何ら変わらず、それどころか守ってくれる事務所もない。当時の婚約者とのツーショット写真が週刊誌にスクープされたのもこのころだ。

「彼は一般の方だったので、目の上に黒い横線が入れられていて、まるで犯罪者のようだった。これならいっそ芸能界に戻ったほうが、プライベートを追いかけ回されずにすむのではないかと考えました」

 復帰後間もなく、22歳で結婚。翌年初めての子どもを授かり、以降、仕事と子育てに奮闘してきた。2度の離婚と2度の再婚を経験し、今では32歳から16歳まで7人の子どもを持つ大家族の“ビッグ・ママ”だ。

「もともと大家族には憧れがありました。アイドル時代の雑誌の切り抜きを祖父が残してくれていて、それを読んでいたら“子どもは最低でも5人は欲しい!”と言っているんですよ(笑)。

 子ども好きということもあるけれど、昔からたくさんの家族に囲まれて暮らしたいという夢があったのだと思います」

 近年はママタレントとして活躍し、テレビやラジオ、イベントで明るい笑顔を振りまいてきた堀。一方、私生活ではたびたび大病に見舞われてきた。2011年、突如として激しい腹痛に襲われ、特発性重症急性膵炎を発症。医師からは「3日がヤマ」と宣告される深刻な状況に。

 2015年には原因不明だった脚腰の痛みが特発性大腿骨頭壊死症によるものと判明。人工股関節にかえる手術を受け、完治したと思われるも、今年の9月にはエックス線検査で骨が溶けている様子が確認され、再検査に進むという。さらに2017年にはリウマチ神経障害性疼痛をわずらい、今なお治療を継続している。

娘の「生きて!」という言葉で見えた“光”

 そして2019年、堀を襲った舌がんという病。当初、かかりつけの内科医には「ビタミンB不足」、歯科医には「口内炎」と診断された。しかし痛みは日ごと増していく。

「激痛に耐えきれず大学病院の門を叩き、そこで初めてステージ4の舌がんと宣告されたんです。最初に違和感を訴えてから8か月後のことでした」

 嘆き悲しみ、死を覚悟した瞬間もあった。手術を決意したのは、「生きて!」という娘の言葉。「手術をするのがいちばん生存率が高いなら、そうしてほしい」と懇願され、そこで「生きたい!」と強く願ったという。

 手術前に堀自身の口から直接病名を伝えられたという親友の早見は、このときのことを「本当に驚きました」と振り返り、こう続ける。

「がんという言葉はもちろん、ステージ4と告白されたときは、あまりにショックでどう受け止めていいかわからなくて……。ちえみちゃんは何て強い人なんだろうと思いましたね。私だったらあんなふうには立ち向かえないし、やっぱりすごい人だなと感じました。

 ちえみちゃんから“手術が終わったら同期のみんなと会いたい”という思いを託されて、松本伊代ちゃん、薬丸裕英さんに伝え、同期のみんなと手術の成功を祈りました」

 手術は11時間に及んだ。舌の6割と首のリンパに転移した腫瘍を切除し、残った舌根に太ももの皮膚と皮下組織を移植するという大がかりなものだ。

 無事手術は成功裏に終わるも、試練は続いた。口は開かず、食事もできず、声を発することすらままならない。何より術後目にした自身の姿に愕然とした。顔はパンパンに腫れ上がり、とても人前には出られない。

「堀さんも最初は絶望されたんですよね。手術が終わった後はあまりにつらくて、“生き残るんじゃなかった”という思いが頭をよぎったそうです。早期発見できなかった悔しさをずっと感じていたけれど、最終的に“怒りを片づけられた”とお聞きしました。きっとご家族や周りの支えもあって、ようやく前を向けるようになったのだと思います」

 こう話すのは、がん研究会有明病院 腫瘍精神科部長の清水研医師。がん専門の精神科医として堀と対談し、このほど共著を刊行している。

 リハビリは過酷で、心が折れそうになったことも。だが「家族がいたから乗り越えられた」と堀。子どもたち、夫婦の絆が彼女を支えた。

「私の気持ちが落ち込まないよう気遣い、寄り添い、わかろうとしてくれた。家族が私に前を向かせてくれた。でも家族もつらかったはず。私は愚痴をこぼせても、家族はそうはいかない。本当に大変だったと思います」

 がんに罹患した患者当人はもちろん、その家族にとっても負担は大きい。

「“家族は第二の患者”といわれていて、実際ご家族の苦痛は患者さんと同等かそれ以上という研究データがある」(清水医師)

 患者をいかに支えていくか、そして大切な人を失ってしまうのではないかという不安が家族に重くのしかかる。患者にどう接していいかわからず、時に当人以上に思い悩む家族もいると、清水医師はこう続ける。

「“こんなことを言うと傷つけてしまうかもしれない”と家族が遠慮し、当人も“家族に心配をかけてはいけない”と平気なふりをしたりと、腫れ物に触るような雰囲気になってしまうケースも多い。

 けれど堀さんとご家族は互いに率直に気持ちを伝え、わかり合おうとしました。患者さんが“自分はもうダメだ。周りに迷惑をかけてしまう”という方向に心を持っていくと、本人も家族も苦しくなってしまう。けれど堀さんには“自分は克服できる”と信じる心があった。そこに堀さんのひとつの強さを感じます」

 手術から5か月後、ボイストレーニングを再開。翌年『徹子の部屋』に出演し、テレビ復帰も叶えた。早期の復帰にファンは喜ぶも、同時に「詐病説」が飛び出す─。それらの多くは“がん=死に直結する病”という誤った認識によるものだ。

「たくさんの方から励ましの言葉をいただき、勇気を持てたし、頑張ろうと背中を押してもらいました。一方でまだまだがんに対する間違った思い込みがあって……。医療の進歩により、今はがんを患っても完治が望めるようになってきているんです。

 治療法もたくさんあって、私のように抗がん剤や放射線治療をしないですむ人もいる。けれど“がんになったらもう社会復帰はできないのではないか”という偏見がいまだに根強くあるようです」

心ない誹謗中傷の声に対して思うこと

 SNSには「放射線治療をしないというのはおかしい」「抗がん剤を使わずに治るわけがない」「ステージ4というのは嘘」などと心ない書き込みがされ、胸を痛めた。

 誹謗中傷はSNSにとどまらず、仕事関係者のもとにクレームの電話をかけてくることもあったという。堀は毅然と立ち向かい、警察や弁護士も動き出した。彼女のブログに159回にわたり誹謗中傷コメントを投稿したとして奈良県奈良市在住の45歳の無職の女が東京都の迷惑防止条例違反容疑で書類送検され、またインターネット上の掲示板で堀を誹謗中傷したとして、千葉県市川市在住の29歳の男の初公判がこの夏東京地裁で行われている。

「SNSの誹謗中傷に関しては今後もひとつひとつ闘っていくつもり。それでもなくなるわけではないとわかっているけれど、これが犯罪だという意識を持ってもらいたい。私は強かったから、いろいろなことを書かれてもまだ生きてこられました。でも大きなショックを受け、心が弱ってしまう人も実際にいます。SNSが人の心を簡単に殺せるということを訴えていかなければいけない」

 復帰後は、自分のすべきことに集中しようと仕事をリセット。メディア出演や講演活動、ブログや書籍を通し、がんの実体験を精力的に伝えている。前出の清水医師も、

「本当に素晴らしいと思います。これまでもがんにまつわる啓発活動はいろいろされてきましたが、いまだに“がん=壮絶な闘病生活を強いられる”と思われているところがある。

 実態と認識がかけ離れているんです。苦しいこともそうではないことも含めて、堀さんがご自分の実体験を語られることで、がんに対する偏見がどんどん変わっていく良い機会になると思う」

 堀のオフィシャルブログ『hori-day』のフォロワーは約34万人。来年年明けには復帰後初コンサートも控え、トレーニングに邁進する日々の様子を生き生きと発信している。

「ちえみちゃんは器が大きくて、もう前しか向いていない。病気を克服してより強くなったように感じます」(早見)

 また彼女もブログの読者のひとりで、いつも元気をもらえているという。

「同じように病気で悩んでいる方も多いと思うし、ちえみちゃんの姿を見て励まされる人はたくさんいるはず。10代のころ、一緒にお菓子を食べていたあの女の子が、こんなにも強くひとりの人間として生きている。そう考えると、私も頑張らなきゃって思います」

 手術から3年半の月日がたった。ステージ4の舌がんを乗り越え、生還した今、彼女の姿はひとつの指針であり希望でもある。

「あのとき生かされたのには意味がある」と堀。自分には大切な使命があると、こう語る。

「私がまず伝えたいのは、早期発見・早期治療の大切さ。私も早期発見できていれば、ここまで発声に障害が残ることはなかった。私のような思いをする人を少しでも減らしたい。2つ目はがんに対する理解。医療の進歩は目覚ましく、がんだからといって絶望的な状態になる病気ではなくなってきているということを知ってほしい。

 3つ目は精神面のケア。治療法が進んでいる一方で、そこはまだまだだなと感じていて、患者本人はもちろんご家族も含めたケアを考えていきたい。

 この3つは私に課せられた使命。私自身の体験を通し、私にできることをこれからも発信し続けていきたいと思っています」

取材・文/小野寺悦子(おのでら・えつこ)●ライター・編集者。編集プロダクション勤務を経て、フリーランスライターに。舞台・映画などエンターテインメントを中心に、ノンジャンルでインタビュー&執筆。オールアバウト バレエ ガイド、ダンス専門サイトdancedition運営。

[ad_2]

Source link

コメントを残す