[ad_1]
はじめまして。勝俣範之と申します。
私は現在、日本医科大学武蔵小杉病院腫瘍内科教授を務めています。「腫瘍内科」にあまり馴染がない方もいらっしゃるかもしれません。腫瘍内科とは、一言で言えば、「がんの総合内科」です。
私の経歴は、この腫瘍内科の確立とともに歩んできた、いや、正に現在進行形で歩んでいると言っても過言ではありません。
長年、腫瘍内科医として働き、時には科学的根拠が確かでない「トンデモ医療」との対峙も続けてきました。
昨年8月に亡くなった近藤誠氏は『抗がん剤は効かない』(文藝春秋)といった書籍を出版し、がんの手術は寿命を縮めるだけだ、抗がん剤は効かない、健診は無意味などと「がん放置理論」というエビデンスの乏しい治療法を提唱してきました。せっかく早期に発見できたがんも、放置することで治療が遅れ、残念ながら命を落とした患者さんもいらっしゃいます。このような現状を黙認するわけにはいかないと、『「抗がん剤は効かない」の罪』(毎日新聞社)といった書籍や『世界中の医学研究を徹底的に比較してわかった最高のがん治療』(ダイヤモンド社)といった書籍も世に送り出してきました(『「抗がん剤は効かない」の罪』を上梓 – 勝俣範之・日本医大武蔵小杉病院腫瘍内科教授に聞く◆Vol.1』を参照)。
この連載では、がんやがん患者さんにまつわる色々なお話を基に、少しでもがんや腫瘍内科について知っていただければと思っています。
そもそも腫瘍内科とは?
腫瘍内科とは、がんを診る内科医、がんの総合内科医と言えば、分かりやすいかと思います。「がんの処置は、外科じゃないの?」と思われるかもしれませんが、がんの治療方法は、当然ながら手術だけではありません。手術、放射線治療、薬物治療、緩和ケアと、がんの治療法は多岐にわたります。
呼吸器疾患には、呼吸器内科と、呼吸器外科、脳疾患には、脳神経内科と脳外科があるように、腫瘍にも、腫瘍内科と外科があるのは当然と思いませんか?ちなみに、腫瘍内科の専門制度が確立されたのは、欧米では1970年代のことです(米国臨床腫瘍学会、欧州臨床腫瘍学会)。
日本での呼び名、なぜ「がん薬物療法専門医」?
日本における腫瘍内科の専門制度は、日本臨床腫瘍学会が2004年に創立され、2006年に初めて、がん薬物療法専門医の専門医が誕生しました。2023年4月現在で、専門医数は1620人ですが、米国の腫瘍内科医数は、19,371名もいます(2022年5月時点)。日本の約12倍です。ここからも日本における腫瘍内科がどれだけ遅れているのかがお分かりいただけるかと思います。
ちなみに、なぜ、「腫瘍内科専門医」と呼ばずに、日本では、「がん薬物療法専門医」なのか。これは、2004年の日本臨床腫瘍学会の設立当初は内科医だけでなく、外科医や産婦人科医なども参加していて、内科医だけでは専門医制度をつくることができず、外科出身の先生方も入れざるを得なかったためです。ちなみに、専門医の名称は、「腫瘍内科専門医」と名称変更が行われることが既に承認されています。
もはや「国民病」のがん、取り巻く環境の違いも
米国では、がんと診断、もしくは、がんの疑いがあると、腫瘍内科医にまず紹介されます。腫瘍内科医が治療のコーディネーター的役割をして、手術が必要なら、外科に紹介、放射線治療が必要なら、放射線治療医へ紹介などします。手術後のフォローアップなどもしますし、もちろん、抗がん剤、薬物療法は腫瘍内科医によって行われます。
このような体制は日本と大きく違うと言えるでしょう。がんは、複雑な病気であり、治療法が多岐にわたり、チーム医療が必要であり、抗がん剤という副作用が非常に強い薬剤を使うので、腫瘍内科という専門家がこのような仕事をするのは当然と言えば当然のことです。
日本でのがん罹患数は年々増え続けており、2019年に新たに診断されたがん患者さんは、99万9075人でした。現在では、100万人を超えていると言われています。一生のうち、がんと診断される確率は、2人に1人と報告されていますので、正に「国民病」と言ってよいでしょう。
そのような状況であるのにもかかわらず、腫瘍内科の専門医数は、決して足りているとは言えません。そのため、がんの薬物療法が日本中のどこでも適切に行われているとは言えない状況にあるのが日本の現状です。
飲み会代は「プロパーさん」持ちな大学病院に…
私はちょうどバブル期の真っ盛り、1988年に富山医科薬科大学(現:富山大学)を卒業し、医師になりました。
医学部5年生から始まった臨床実習の際に感じたのは、製薬企業の方々との密接な交わりです。製薬企業の方々は、現在では、MR:Medical Representatives(医療情報担当者)と呼ばれますが、当時はプロパーさんと呼ばれました。
この記事を読まれている方の中にも昔の時代の話を上級医の先生方からお聞きになったことがあるかもしれませんが、実習中も週1~2回は、夕方になると、プロパーさんによる薬の説明会が行われ、その際には、うなぎなどの高級弁当が支給されていました。
説明会が終わる頃には、プロパーさんが「ぜひわが社の〇〇をよろしくお願いいたします」などと声をかけ、「うむ、わかった。次からはこの薬剤でいこう」などと、教授や医局長などが応じるといったことも日常茶飯事でした。
外科病棟のナースステーションには、使用する抗生物質の張り紙がしてあり、5月第1週は、○○、第2週は、△△と抗生物質の名前が大きく書いてありました。患者さんに使用する抗生物質が、個々の患者さんの病状に合わせて決められるのでなく、病棟全体で、週替わりで決められていました。しかも、全てが第3世代のセフェム系の抗生物質でした。
今の時代には、考えられないような光景かもしれませんが、当時は、抗生物質の販売企業と病院との癒着はすさまじいものがあり、各社は、自分のところの抗生物質を使用してほしいため、医師へのさまざまな形でアプローチしていました。日々の実習が終わる頃、夕方の医局の前の廊下には、ダークスーツを着たプロパーさんが、ズラッと並んでいたものです。そのうちの1~2人に先輩医師が声をかけ、「今日はお前と行くことにする」と口にし、街へ繰り出すことも。時々、医学生も一緒に連れて行かれました。2~3次会まで飲み歩くのですが、支払いは全てプロパーさん持ち。プロパーさんたちは、飲み会でも、場を盛り上げようと、学生である我々にも気を遣ってくれたりしました。
また、夏になると、医局旅行があり、そこにも、ダークスーツを着たプロパーさんがたくさん来ていて、飲み物や食べ物などを用意してくれました。また、忘年会シーズンになると、忘年会の前には、医局全体の大々的なボウリング大会が行われ、プロパーさんから全ての出席者(医学生、看護師、家族を含めて)に景品が配られました。
このような製薬企業との癒着を目の当たりにし、私は患者さんに使われる治療薬などが、医学的根拠ではなく、製薬企業の接待の度合いによって決められている大学病院に絶望していったのです。このような私が、初期研修をどうやって選んでいったのか、次回お話ししたいと思います。
勝俣範之
1963年生まれ。富山医科薬科大学医学部卒業。92年から国立がんセンター中央病院内科レジデント。その後、同院第一領域外来部乳腺科医員、同院薬物療法部薬物療法室医長などを経て、2004年1月ハーバード大学公衆衛生院に留学。帰国後、同年4月から同院第二通院治療センター医長。10年に国立がん研究センター中央病院乳腺科・腫瘍内科外来医長となり、11年10月から現職。専門は、内科腫瘍学、抗がん剤の支持療法、乳がん・婦人科がんの化学療法など。所属学会は、日本臨床腫瘍学会、日本癌学会、日本癌治療学会、日本内科学会など。がん薬物療法専門医。医学博士。
[ad_2]
Source link