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地方にある中小規模の公立病院の多くが医師不足に頭を悩ます中、相次いで常勤医師を確保し、800平方キロメートルに及ぶ圏域住民らに医療を提供しているのが邑智郡公立病院組合公立邑智病院(以下、公立邑智病院、島根県邑南町)だ。2022年4月には、都市部で経験を積んできた東京都出身で卒後22年目の整形外科医が赴任した。なぜ縁もゆかりもない島根県の中山間地にある100床規模の小さな病院を選んだのか。新天地で2年目を迎えた保坂聖一医師に話を聞いた(2023年5月19日インタビュー、全2回の連載)。
――東京都出身で、関東地方の病院に約20年間勤めていたと聞いています。
都心から1時間弱の通勤圏にあるベッドタウン、東京都東大和市の出身です。札幌医科大学卒業後、国立東京医療センター(現独立行政法人国立病院機構東京医療センター)で2年間内科研修医としてローテーション研修をした後、縁あって慶應義塾大学整形外科に入局しました。関東地方の3病院で計約6年間勤務した後、同大学病院に戻り、骨・軟部腫瘍を専門に診るようになりました。
当初は手の外科を専門にしたいと考えていました。若い頃は外傷を中心に手術の経験を積むわけですが、私が回った病院には優秀な手の外科医がいて、憧れた部分もあったと思います。手の外科はマニアックそうでいて、骨折、腱や神経損傷などの外傷、変性疾患、リウマチ、腫瘍など意外に守備範囲が広いのです。しかし手の外科は人気が高かったこともあり、第二志望だった腫瘍を専門とすることになりました。研修医時代、内科を経験していた上、専攻医時代に腫瘍の患者さんを多く担当したこともあり、自分に向いているのでは、と思いました。悪性腫瘍の患者さんは全身管理が必要です。化学療法とそれに伴う合併症の管理、手術も四肢だけではなく全身を扱います。病気が進行し、緩和ケアが必要な患者さんも多く、のちのち私の人生にも影響を与えることになります。
大学病院での5年間と静岡県立静岡がんセンターでの5年間はまさに腫瘍漬けの日々でした。そんな折、私自身がベーチェット病を発症。左眼の視力が大幅に低下し、大学病院での治療が必要になったことなどから腫瘍の臨床を続けることが難しくなり、川崎市立井田病院に異動し、骨折などの一般整形外科診療を5年間担いました。
――大きな病院で、しかも診断や治療が難しい腫瘍を長年診てきた先生が、なぜ地域医療に関心を持つようになったのですか。
自身の思わぬ発病で異動になった川崎市立井田病院での経験が大きいです。同院は緩和ケアや在宅医療に力を入れていて、2016年には地域包括ケア病棟も開設されました。急性期治療が終了し、症状が安定・改善したものの在宅復帰には不安がある患者さんらを受け入れていました。
医療の世界でも高齢化が問題になっており、都市部である川崎市も例外ではありませんでした。私の受け持ち患者も約8割が80歳以上でした。高齢者は大腿骨近位部骨折や脊椎椎体骨折が多く、高齢者の骨折治療が業務の約7割を占めていました。しかし、例えば大腿骨近位部骨折の場合、手術自体はうまくいっても高齢者がすぐに自宅に帰ることは困難です。リハビリをしても運動機能が低下しているので成果が出ないことも多いですし、そもそも認知症や意欲の低下でリハビリ自体があまりできない人もいます。地域包括ケア病棟では、そんな患者さんに対して自宅に帰れるようにケアをしたり、どうしても自宅退院が難しそうな場合は施設を探したりする。これまでのキャリアで初めての経験でした。
さらに同院に在籍中、自分の母親も腰椎椎体骨折で入院し、地域包括ケア病棟を経て自宅に帰りました。私が主治医として診たのですが、まさに超高齢社会の現実を目の当たりにしました。今後、地域医療における整形外科のニーズは一層拡大する。誰かがやらねばならないと思いましたね。ただ若い医師は、先端の手術やスポーツ整形などに興味を抱く人が多い。私みたいな“おっさん整形外科医”が担っていかないといけない分野なのではないか、と痛感しました。
――若い腫瘍患者を診てきた経験も緩和ケアや在宅診療への関心につながったそうですね。
慶應義塾大学病院や静岡県立静岡がんセンターで骨・軟部腫瘍患者を診ていた時は、小児や若い患者さんも多かったです。まだ10歳代前半の子どもたちは、自分の病気を受け入れることができなかったり、化学療法や手術を嫌がったりすることもあります。病気が進行して治療が難しくなり、緩和ケアに移行する子もいました。しかし、高齢者の緩和ケアと違い、若い人や子どもへの緩和ケアはいまだに確立されていません。特に、メンタル面のケアや親御さんとの関わり方などは答えがなく、悩みながら手探りの毎日でした。
緩和ケア医や小児科医と相談しながら治療方針を進めるのですが、助からないと分かっている命や患者に対し、どう向き合い、どうケアしていくかということは本当に難しかったです。自分の人生経験が浅く、家族を看取ったこともないので余計に辛かったですね。緩和ケアをもっと勉強したいという気持ちはこの時に生まれました。難病の発病を機に異動した先が、緩和ケアに力を入れている病院だったのは何かの縁かもしれません。
自分がベーチェット病を発症した時は、ショックでした。失明に至る可能性もある病気だし、医師を辞めなくてはいけないかとも思いました。実際、一時期は視力が低下して手術を控えていました。でももし発症していなかったら、今も大学病院で腫瘍をやっていたかもしれません。人生とは不思議なものです。
――川崎市での地域医療にやりがいを感じていた先生が、なぜ地方への転勤を考えたのでしょうか。
新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、緊急性のない手術は延期になることが多く、急に時間ができました。そんな時、「このままでいいのだろうか」とふと思ったのです。管理職になる年齢が近づいていましたが、当時の私の上司は臨床業務に加え、部下の管理や教育、会議やクレーム対応などの管理職業務に忙殺されていました。管理職業務は必要ですし、誰かがやらなければならない訳ですが、自分がやりたいことではないな、と。そこで本当に整形外科医が必要とされている場所で働きたい、と思うようになったのです。
整形外科医は年々増加しており、全国に2万人以上います。しかし、その多くが都市部に集中しています。本当に整形外科医がいなくて困っている地域があるのか――。そんな場所を探すところからスタートしました。
他の地方にパイプがない私は、インターネットで整形外科医の募集を探してみました。しかし、圧倒的に情報量が少なく、ドクターバンク事業を行っている自治体もそれほど多くありませんでした。そんな中、島根県には医師確保対策室が設置されており、医師や看護師らを対象にした登録制度「赤ひげバンク」もあります。医師の専任スタッフがいるなど、他県に比べて医師確保に力を入れていると感じました。同時に民間の医師就職サイトにも登録し、最終的に島根県の公立邑智病院を含む3病院に絞りました。その後、現地を訪れ、実際にスタッフらと話した結果、島根への赴任を決めました。
◆保坂 聖一(ほさか・せいいち)氏
2000年に札幌医科大学医学部を卒業。国立東京医療センター(現独立行政法人国立病院機構東京医療センター)で臨床研修後、2002年に慶應義塾大学整形外科教室に入局。以降栃木県、静岡県、神奈川県の病院で研鑽を積む。2013年静岡県立静岡がんセンター整形外科医長、2018年川崎市立井田病院整形外科担当部長を経て、2022年から現職。専門は骨軟部腫瘍、がんの骨転移。
【取材・文・撮影=門脇奈津子】
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