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医療法人社団はやぶさ理事長の水上潤哉氏

 製薬企業に勤めるサラリーマンだった父親に末期がんが見つかった。余命は7カ月。最後の願いは「どうせ死ぬなら自宅で過ごしたい」というもの。だが、大学病院に所属する自分には一時退院の調整くらいしかできなかった。非常勤先の訪問診療では多くの患者を自宅で看取っていたにも関わらず、父は病院で息を引き取った。62歳だった。「医師になったのに何もしてやれなかった」。この悔しさが医師としてのキャリアの大きな転機となる。

 もともと東京医科大学進学時、漠然と抱いたのは多くの人を苦しめる「がん」治療に取り組みたいという思いだ。同時に、赤ちゃんからお年寄りまで、幅広い年代の患者を診療したいという思いもあった。初期研修後は皮膚科への入局を決める。

 同時に訪問診療クリニックでの非常勤勤務もスタート。大学病院とは違った形で患者に関わる機会を求めた。大学病院の外来では患者が2~3時間待ち、実際の診療時間が5分程度といったことも少なくない。訪問診療であれば、病気によってどのような困難が生じているか、生活環境を見ながら、しっかりと時間をかけて診療することができる。

 「大学病院の患者さんはまずは病気を治すため、通院・入院している。一方で、訪問診療の患者さんはどちらかと言えば、病状を維持させ、今できている生活を続けていくことに主眼が置かれることが多い。どちらも患者さんを中心に置き、必要な診療を行うという意味では同じだ」

 この頃、福島の関連病院での週1回の勤務も始まった。派遣先に皮膚科医はおらず、半径10キロ圏内には他の皮膚科もない。自分が出向く週1回の診療を心待ちにしている患者が多くいた。紹介状を書いても、その紹介先は何十キロも先の病院だ。通院の負担も大きいため、できる手術は自分でやる方針を貫いた。当初は15時半までだった診療時間を、必要に応じて延ばすことも。「小学校が終わってからでは間に合わない」という保護者の声が届いたためだ。

 

 こうした地域医療の現実を目の当たりにしながら、大学病院で研鑽を積み、最先端の医療を提供し続けることを目指した。医学部時代の同期には開業医の子弟が多く、いずれは実家の医院を継ぐことを念頭に大学病院で勤務することも多い。だが、医師家系ではない身としては、大学病院に骨をうずめる覚悟でいた。

 2009年には東京大学大学院薬学研究科で基礎研究をスタート。薬の開発や病気のメカニズム解明に取り組んだ。父親に末期がんが見つかったのはその頃だ。「これだけ医療が進歩しても、治せない病気があるのか」。初めて患者側に立ち、残酷な現実を突きつけられた。

 父親を在宅で看取れなかったことに後悔の念だけが残った。父親の死をきっかけに、訪問診療への思いが燃え上がった。非常勤のバイトではなく、本職として訪問診療をやろうと決意した。「まさか自分が開業するなんて」。大学に骨を埋めるつもりだった医師人生が大きく転回しようとしていた。

(つづく)   

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