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卒後2年目、1989年のことです。私が担当したホジキンリンパ腫の患者さんをテューマーボードでプレゼンテーションしました。その際に、近藤誠先生からは次のように指導を受けました。
「患者さんに、化学療法と、放射線治療のそれぞれのメリット、デメリットを説明して、患者さんに治療法を選んでもらうんだ。これを、インフォームド・コンセントと言う」
今でこそ、インフォームド・コンセントは、医療現場では必須のことですが、当時の日本では、インフォームド・コンセントはほとんど行われていませんでした。その当時行われていたのは、あらかじめ医師が治療方針を決めて、その内容を患者さんに説明する、いわゆる「ムンテラ」のみでした。ムンテラとは、ドイツ語の「口」を意味する「ムント」と、「治療」を意味する「テラピー」をくっつけた和製ドイツ語であり、「ムンテラ」は、医師が一方的に治療方針を決めて、患者さんに説明するという、医師本位のものでした。
そのような時代だったからこそ、患者の自己決定権を大切にして、患者さんに治療を選んでもらうという「インフォームド・コンセント」に大きな衝撃を受けました。患者さんに選んでもらうと言葉にするのは簡単ですが、きちんと分かりやすく説明しないと患者さんは、理解できず選ぶこともできません。まずは医師が患者に対して、分かりやすく丁寧に説明する必要があります。
乳がんの温存療法、CMF療法もいち早く導入
近藤先生は、乳がんの温存療法を日本に広めた医師として有名になりました。それまでは、乳房全摘術が標準治療とされていましたが、乳房温存術と、全摘術を比べるランダム化比較試験で再発率、全生存率に差がないことがNew England Journal Medicine誌(N Engl J Med. 1985 Mar 14;312(11):665-73.)に報告されると、いち早く取り入れたのが近藤先生です。近藤先生が所属する慶應義塾大学は保守的なスタンスだったため、米国のランダム化比較試験で得られた結果をすぐ取り入れることはしませんでした。そのため仕方なく、外勤先である茅ヶ崎徳洲会病院(神奈川県茅ケ崎市)で温存療法を実践したのです。
この温存療法を行う際も、近藤先生は温存術と全摘術のメリット・デメリットを説明し、患者に治療法を選択してもらうようにしていました。当時の日本では、がん告知すらほとんど行われていない状況で、こうしたインフォームド・コンセントを徹底していたのは画期的なことだったと今でも思います。
また、乳がん術後の化学療法は、1976年に発表されたランダム化比較試験(N Engl J Med. 1976 Feb 19;294(8):405-10.)により、CMF(シクロフォスファミド、メソトレキセート、5FU)療法が、世界的標準治療とされていましたが、当時の日本では、CMF療法は保険適応になっていませんでした。そこで茅ヶ崎徳洲会病院では、患者さんからインフォームド・コンセントを得た上で、自費診療でCMF療法を行っていました。1980~1990年代の日本では、世界的な標準治療がほとんど行われておらず、エビデンスの乏しい経口5FU製剤が使われていた(J Clin Oncol. 1999 Oct;17(10):3362-5.)ので、エビデンスを重視した近藤医師のやり方に、当時研修医だった私は、大変驚くと同時に感銘を受けたのを覚えています。
テューマーボードでプレゼンをした20代のホジキンリンパ腫の患者さんは、放射線治療と、化学療法について、メリット、デメリットを説明し、患者さんは、化学療法を選択されました。化学療法がよく奏効し、寛解に至りました。
一人の患者との出会いが、腫瘍内科医目指すきっかけに
茅ヶ崎徳洲会病院では、上級医の指導のもとで研修医も主治医となり、患者さんへの治療方針の説明も任されていました。非常に多くの患者さんの担当をさせていただきましたが、私が腫瘍内科医を目指すきっかけになった、ある肺がん患者さんとの出会いを紹介します。
その方は50代の肺小細胞がんの患者さんでした。がんは進行していましたが、化学療法をするために入院となり、私が主治医になりました。しかし、先述の通り、当時はまだがん告知はほとんど行われておらず、この患者さんも自身の病名が肺がんであることは知らされていませんでした。
悪性リンパ腫は当時、「リンパ腫」、胃がんや肺がんなどは、「がん」とは言わず、患者さんへは、「胃にできものができた」とか「肺の腫瘍」などと説明していました。その患者さんも、「肺の腫瘍」と告げられた上で化学療法が行われました。
シスプラチン、エトポシドが投与されましたが、その頃の化学療法の吐き気止めは、5HT3拮抗剤やNK1阻害剤などがない時代で、メトクロプラミドとデキサメタゾンしかありません。化学療法後に、ひどい吐き気と嘔吐があり、だいぶ辛そうにしていました。
ある日、この患者さんは「この薬はいったい何なんだ?毎回、こんなんだととてもやっていけない。俺の病気は、いったい何なんだ?『がん』ならはっきり言ってほしい」と詰め寄ってきました。どのように答えるべきか悩み、上級医に相談すると「がんであることを告知はしてはいけない。自殺でもしたらどうするんだ。責任取れるのか?」と一言。結局この時は告知を諦めざるを得ませんでした。
「騙して抗がん剤をやっているんだろう」
化学療法は一度だけでなく、何回も続けられます。入院するたびに、辛い化学療法が続きました。
「先生たちは、本当のことは言わないんだろう。騙して抗がん剤をやっているんだろう。本当のことを言ってくれと言っているのに、なぜ本当のことを言ってくれないんだ」
その患者さんは次第に医師に対する不信感を高めていきました。回診で病室を回っても、そっぽを向いてしまい、何も話してくれません。次第に悪化していく状況を前に、私は何度も上級医にがんの告知をすべきではないかと相談しました。しかし、上級医にはその度に強く反対されました。
ある時、私は意を決してその患者さんを面談室に呼び出し、こう切り出しました。
「実は、今までは言えませんでしたが、あなたの病気は、肺がんなんです。これまで抗がん剤治療をやってきました。完全に治すことは難しいかもしれませんが、がんを抑えることができるかもしれません。つらいですが、もう少し、一緒にがんばりませんか?」
すると患者さんは、「先生、よく話してくれた。ありがとう。自分は、家族のためにももう少し長生きしたいので、頑張って抗がん剤をやり続けてみたいと思う」と答えてくれたのです。
その後は、患者さんとの関係も良くなり、抗がん剤の治療を継続し、一時期はがんの進行をだいぶ抑えることができました。私はこの経験を通じて、医師と患者との信頼関係を築くためには本当のことを誠意を持って伝えることが大切なのだと学びました。
これを機に、私はがん医療をもっと勉強し、がんを専門とする医師になりたいと考えるようになりました。当時はがん告知が一般的でないだけでなく、麻薬処方もまだまだ普及していません。茅ヶ崎徳洲会病院での研修は大変充実したものでしたが、がん治療、特に化学療法や麻薬処方などのやり方については専門とする医師がいない状態でした。そこで外部の病院で勉強することを決め、国立がんセンター(当時)のレジデントに応募することを決めました。
勝俣範之
1963年生まれ。富山医科薬科大学医学部卒業。92年から国立がんセンター中央病院内科レジデント。その後、同院第一領域外来部乳腺科医員、同院薬物療法部薬物療法室医長などを経て、2004年1月ハーバード大学公衆衛生院に留学。帰国後、同年4月から同院第二通院治療センター医長。10年に国立がん研究センター中央病院乳腺科・腫瘍内科外来医長となり、11年10月から現職。専門は、内科腫瘍学、抗がん剤の支持療法、乳がん・婦人科がんの化学療法など。所属学会は、日本臨床腫瘍学会、日本癌学会、日本癌治療学会、日本内科学会など。がん薬物療法専門医。医学博士。
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